既に相当漂っている | かや

かや

かやです。



仏教に「喜捨」という言葉がある。文字通り喜んで捨てるということだ。寺や神社で賽銭を投げ入れることを喜捨すると言うが、これは賽銭を投げることを意味しているのではなく、心に抱えている執着心やこだわりを捨てることを意味している。物事に対する執着心を賽銭を投げながら捨てることで心が解放されていく。
従って、賽銭を投げ入れて願い事を念じたり、賽銭の額を弾むことで願いがより叶うかも知れないなどと思ったとしたら、ずいぶん見当違いも甚だしいということになる。
少しでも人の役に立つために金を放す(捨てる)ことは喜びだ。災害の義援金などがまさに喜捨だ。
しかし喜捨は人知れず、そっとするのが良い。
仏教では「陰の徳を積む」という言い方があり、それが最も尊いとされといる。
これ見よがし、あからさまに、寄付をした、義援金を出したなどと人に敢えて言うのはあまりにも浅ましい。
同様に人助けをしたことも他者に自己申告をした時点で、徳を積むという行ないからは真逆な方向にその精神は向いていると言って良いだろう。
そもそも、そのような行ないを聞かれもしないのにわざわざ誰かに言えば、大概の人が偉いですね立派ですねとか心がけが良いですねだとか一応は言うだろう。
その褒め言葉に満足するとすれば、それは良い人という演出に成功した喜びであり、謙虚さの欠片も無い。


臨済宗徳雄山建功寺住職の枡野俊明氏は昔の日本では「お天道様」という言葉が日常的に使われ、「お天道様が見ているから悪いことは出来ない」「お天道様に恥ずかしくないように生きなくては申し訳が立たない」といった言い方がされていたがこの「お天道様」の存在は人々にとって、その言動を律するものだった、それこそ「陰徳」はお天道様がしっかり見てくださっているのだから、その行為には真理の光が当たっている。と、著書の中で何度か記している。
「天の蔵に徳を積む」という考え方が古来日本には有り、善行をして見返りを求めず、与えたものを後悔せず、自分が徳を積む機会を与えて頂けたことに感謝するという生き方で、キリスト教にも「天に宝を積む」という考え方があると言うが、どちらも陰徳を積むに同意だろう。


見返りを求めないというのは同等の金品を得たいとあからさまに手を差し出さないから求めていないとも言い切れない。
いちばん卑しいのは、謙虚さを装いながら、然り気無く、しかしわざわざ善行を披瀝し、他者の関心を引き、立派な行ないを演出することだろう。
当人は周囲をうまく騙しおおせたと思っているやも知れないが、それこそ「悟臭」がぷんぷん漂っている。
損得勘定や顕示欲などを微塵も感じさせない立派な文言だったとしても、その発する言葉の端々から生臭く澱んだ臭気は漂う。
悟臭は禅語で、修行を積んで高い心の境地に達すると「私は人よりこんなに高みに居るのだ」という「臭気」が漂ってしまうことがあり、決して発してはならないものだ。
高い心の境地に達していると自覚すること自体、その自覚がかなり不遜な場合もあるし、徳を積んでいると思い込むことも独りよがりやも知れない。
何にしても、わざとらしさを微塵も感じさせず、善行とやら祈りとやらを、他者に放った瞬間に、善行では無くなり、祈りでも無くなり、空々しい自己演出に長けた厚かましさだけがあらわになる。沈黙していられない時点で悟臭は既に相当漂っている。


friday morning白湯を飲みつつ空を眺める。

本日も。薄い。