音韻を想起した | かや

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江戸時代頃から仏教者によって紹介され、仏教的な生き方を説く仏教書に準じるような扱いを受け、近現代では仏教関係者間のみならず、広く一般に読まれるようになった洪自誠(こうじせい)の『菜根譚』は明王朝末期、政治の混乱期に山林に隠棲し、中央との関わりを断ち、儒教・仏教・道教の研鑽に努めて日々暮らす中で著したと言われ、前集二百二十二条、後集百三十五条から成り、前集は主に人の交わり、後集は自然と閑居の楽しみを説いている。人生の前半では科挙に合格したエリート役人かそれに類する道を歩み、その後には何らかの理由で不遇の状況へと追いやられ、山林での隠棲生活へと入った洪自誠の編んだ言葉は時代を超えて広く受け入れられている。
日本では綴られた言葉は処世訓として広く読まれてきているようだが、どの言葉も音韻が心地良いことが魅力のひとつやも知れないと読むだにその意味することよりも流れるような音の響きを心地良く感じる。


人の情は、鶯の啼くを聴かば則ち喜び、蛙の鳴くを聞かば則ち厭う。
花を見れば則ち之(これ)を培わんことを思いら草に遭わば則ち之を去らんことを欲す。
倶(とも)に是(こ)れ形気(けいき)を以て事を用うるのみ。
若(も)し性天(せいてん)を以て之を視(み)ば、何者か自(みずか)ら其の天機(てんき)を鳴らすに非(あら)ざらん、自ら其の生気(せいき)を暢(の)ぶるに非ざらんや。
(『菜根譚』後集四十九) 

一般に人の性質として鶯が鳴く声を聞くと喜び、蛙が鳴くのを聞くと嫌がる。
花を見るとそれを植えたがり、雑草を見付けると抜き去りたいと思うものだ。
これはどらも事物を表面的な外形によって判断したに過ぎない。
しかしもしも、それらの本性を見抜いたならば、鶯にせよ蛙にせよ、いったい天から付与された素晴らしい音を鳴らさないものなど有るだろうか。
花にせよ雑草にせよ自然のエネルギーのままに生育していないものなど有るだろうか。

対象が何であれ、人は誰しも自分が好むものに触れると喜びを感じ、自分が好まないものに触れると不快になる。そして誰もが自分の好むものだけを見ていたい、聞いていたい、考えていたい。そのように自分が好むものに触れているのが幸福だとする姿勢は、外界の好ましいものに触れなければならないという条件を設けることによって心が外界に従属してしまうことに他ならない。
外界の出来事の表面的な意味に引きずり回されることに警鐘を鳴らしていることによく耳を傾けておきたいところだと解釈にあるが、良い悪いの感受は全てはその人の持つ固定観念から発露しているに過ぎないということは日常あらゆる場で常に起きている。現象をありのままに見れば、良いも悪いも無いということがじわりじわりと滲むように染み渡ってくる言葉だ。



昨日、ホーストレッキングを楽しんだ。
以前にも同じコースを堪能したが、八ヶ岳南麓高原湧水群のひとつ、名水百選になっている湧水を目指す道程で、やや難所もあり、狭い崖を通り、橋を渡ると聞こえてくる川のせせらぎの先にある湧水のマイナスイオンを浴びることになる。馬上から見る景色は当たり前だが車窓や歩いている時の広がる視界とは異なる。
二時間半ほどの森林の外乗だったが深い自然の中に身を置いて、ふと『菜根譚』が浮かんだ。隠棲生活を送った洪自誠の説き示す内容では無く、馬の歩みの韻律に言葉の流れるように美しい響きを持つ音韻を想起した。
呼吸はひたすらゆっくり、そして、深い。
このまま森林に同化してしまうのでは無いかと思った。


monday morning白湯を飲みつつ空を眺める。

本日も。淡い。