どうなのだろう | かや

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後漢時代の文人で思想家の王充(おうじゅう)が著した『論衡(ろんこう)』に「太平之世、五日一風、土日一雨、風不鳴枝、雨不破塊、雨必至夜」太平の日には五日に一度風が吹き、十日に一度雨が降るものだ。そして、その風は木々の枝を鳴らすほどには強く吹かず、その雨は土の塊を砕くほどには強く降らない、かくして適度な風と雨が万物を育てる。気候が順調で太平なさまを記した一文がある。引いて天候が順調に経過することを〈五風十雨(ごふうじゅうう)〉という雨のことばとして使われ、転じて、世の中が太平なことのたとえともなった。程よく雨が降り、程よく風が吹く。
その程よさは天候をはじめ、あらゆる事象に言えることだろう。

因みに、王充は、前漢時代に一世を風靡した「天人相関・災異説」(人間界で間違ったことがあると、災害や天文の異変などが起こり、逆に災害や天文の異変が起こると人間世界にもそれに相応した変動が起こる、とする世界観)を否定するために、今日から見て科学的な常識をたくさん『論衡』の中で示している。

実証主義の立場から、自然主義論、天論、人間論、歴史観など多岐多様な事柄を説き、一方で、非合理的な先哲、陰陽五行思想、災異説を迷信論として、徹底的に批判した。
但しそれは科学のために言っているのでは無く、何らかの天災地変があると、災異説によって、対立党派を攻撃することが出来るという政治構造を改めようとした政治的な主張だった。


政治的主張である点は脇に置いて、人間界で間違ったことがあると、災害や天文の異変などが起こり、災害や天文の異変が起こると人間世界にもそれに相応した変動が起こると信じて疑わない考え方は、私は、どうにも好きになれない。
そのような「天人相関・災異説」は長い長い歳月の中で、様々に都合良く塗り替えられて、換骨奪胎され、神託を聴いたと自称する者が語る、否、騙る、神の意志の解釈と予告として、預言すること自体、既に有り難みなど欠片も無いし、イカサマやペテンとしか思えない。
勿論そのようなことを宣う人々の全てがそうだとは決して思ってない。
とはいえ実際、虚言に長けた人間は神憑り的なことを吐き、自身を特別な存在としてアピールしがちだ。
譲りに譲ってもそのようなことは無いだろうがもし神託とやらを聴いたとしても、自ら預言者の立場でペラペラ宣い、何らかの注意喚起を他人に無責任に押し付けるのは、既にその時点で、詐欺師並みに信用出来ない。
詐欺師は自身の空疎な欠落を埋めるべく、妄想に長け、ある意味、想像力が豊かだ。


ブッダの勧める生き方に「(真の)バラモンは、(煩悩)範囲を乗り越えている。彼が何ものかを知り、或いは見ても、執着することが無い。彼は欲を貪ること無く、また離欲(りよく)を貪ることも無い。彼は〈この世ではこれが最上のものである〉と固執することも無い」
仏道をいく人として欲を貪ることが無いのは当たり前たが、ここには「離欲を貪ることも無い」ともある。
欲望を離れることに執着したり、そのために頑張っていきおい生活態度を無理に変えてしまったりすることも無いということだ。
例えば自分が煙草をやめたとしても禁煙が一種の固執になったり、他人の喫煙を高みから責めたりすれば、それは離欲を貪ることになる。
また、自分が実践している健康法が最上だと他人に押し付けるようなことも、一種の固執であり、一般の目から見ても、自己中心的な態度だろう。
そのような、人間にとって最上もしくは適正な道と勝手に判断していることを示すことを、謎の目線から、天人相関・災異説、陰陽五行思想紛い切り取ったような都合の良い局部的な何かを他人に預言すること自体、そもそも預言とはずいぶんと傲慢だし、どうなのだろう、と、うっすら、しかし、明らかな違和感を覚えてしまう。
勿論そのようなことを宣う人々の全てがそうだとは決して思っていない。


wednesday morning白湯が心地良く全身に巡り渡る。

本日も。淡い。