曖昧 | かや

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山中示諸生

渓邊坐流水
水流心共閑
不知山月上
松影落衣斑

山中(さんちゅう) 諸生(しょせい)に示す

渓辺(けいへん) 流水(りゅうすい)に坐(ざ)し
水(みず)流(なが)れて 心(こころ) 共(とも)に閑(かん)なり
知(し)らず 山月(さんげつ)の上(のぼ)るを
松影(しょうえい) 衣(い)に落(お)ちて斑(はん)なり

王守仁(おうしゅじん)の五言絶句。
山田勝美氏『中国名詩鑑賞辞典』によれば、王守仁は1472年-1529年。アザは伯安(はくあん)、業は陽明、余姚(よよう/浙江省)の人。弘治(こうじ)の進士、兵部主事(へいぶしゅじ)に任ぜられる。正徳年間に南贛(なんかん/江西省南部)を平定、また大帽山(だいぼうさん)の諸賊を平らげ、更に寧王宸濠(ねいおうしんごう)の乱を討伐するなど、文臣にしてよく武功を立て、死後に新建侯(しんけんこう)を贈られ、文成と謚された。その学は良知良能を主とし、知行合一を唱えて、朱子の学説に反対した。この一派を陽明学派とも姚江(ようこう)派ともいい、日本に於ての思想上にも大きな影響を与えた。中江藤樹(とうじゅ)・熊沢蕃山(ばんざん)などは、その流れをくむ学者だ。



意。谷川のほとりで、流水にのぞんで座っていると、水の流れは我が心と共に長閑だ。ついうっかり、山の端に月の上ったのも気付かずにいたが、ふと気が付くと、松の影が我が衣にまだらに映っていた。

山荘における悠々たる心境を詩に託して弟子たちに示したもので流水に忘我の境を託して、山月に悟境を表し、哲学的な趣のある詩と解説されている。

少し前、都心からふたつほど県を跨いだ町に所用で訪れた。用事はすぐに終わり、帰路少し回り道をして、滴るばかりの青葉の下を縫うような山の道を堪能した。
山峡を迸る清流が一瞬視界に入り、その清らかに流れる水のほとり、岩に佇んだらさぞ心地良いだろうなと思う否や、カーヴと共に次の光景に一瞬で消滅し、まるで幻影のように清冽な水流が脳裡に残った。
岩肌のひんやりとした触感や遠い尾根を去来する白雲や閑古鳥の鳴く声が視覚や聴覚に伴う空想に、ほんの瞬きだったが浸り、王守仁の五絶が浮かんだ。山の風趣は折々の四季に豊かな変化を見せる。どの季節の如何なる天候と時間帯であれ、自然の及ぼす印象はいつでも深い。脳裡にとどまる記憶は自然のうつろいばかりがいつでも鮮やかで、他の記憶はどれもこれもが曖昧だ。


幾つかの居住場所のひとつの住まいで終日過ごした。
厳密には朝食に立ち寄る幾つかの店のひとつで済ませ、ヘアサロンでシャンプーブローしたりもしたし、夕刻も招かれて外食したが、ほぼ住まいで完結した。
庭の木陰のテーブルで過ごしていると、海外から帰国している知人女性からのメールが入った。
女性はもともと父の知り合いで、毎年今頃の時期にひと月半ほど日本に戻り、一年に一度、父と再会していたが、父の死後からは、帰国の度に、父の墓参りと食事のひとときを共に過ごすのがその知人女性との今頃の時期の恒例となった。

普段、毎月、菩提寺を訪れ、住職に挨拶し、墓参りをしているが、そのタイミングで女性から提案してくれた日が都合付かず、女性は単独で墓参りをしてくださり、その報告のメールだった。
どなたかが来てくださっていたようで、墓前には新しい花が供えられていたので、女性の持参した花で、墓は花で盛り盛りになったと記されていた。
墓には父の死後、出版社やギャラリーのオーナーや美術館のスタッフをはじめ、父と交流の有った人や父を慕ってくださっている方々が、いまだに時折思い出してくださるのだろう、行くと、花が供えられていることがしばしばだ。
毎月、欠かさず墓参りをするようになって、ずいぶん経つ。平成二十二年に父が他界する前から、更に平成二十八年に母が他界する更にずっとずっと前から、毎月墓参りをしている。
月のはじめに行くことが多いが、意味は無く、何と無く習慣となっているからだが、墓参りと共に氏神神社も立ち寄っている。
菩提寺が赤坂七丁目であることも有り、氷川神社も寺からは徒歩数分もかからず気軽に立ち寄り易い環境だからという理由もあるだろう。両親が健在の頃から、毎月墓参りと神社散策をしているが、気付けば、いつの間にか、両親は墓石の下に収まっている。
歳月は感情も記憶も飛び越えたように過ぎて行く。
歳月が経過し堆積していることがまるで泡沫のようで、生きていることと死んでしまっていることの差異が曖昧になる。生きていることが真実でも死んでしまっていることが現実でも無いような。ではいったい真実とか現実とか、その言葉の意味は何だろうとさえ思える。
ただ記憶の中にしか真実は無いし、それが現実なのだろうが、面倒なのでそれ以上は何も考えない。
何も考えないのはいつものことだが、こうして、日々はいい加減に有耶無耶に過ぎて行く。物事をはっきり結論づけずなにもかも雲散霧消していく。有るのか無いのかさえ明白で無く、朧気で曖昧模糊の状態の〈存して有(う)と為さず、亡びて無(む)と為さず〉で全てが程よい。
存して有と為さず、亡びて無と為さず。
なんと心地良い響きだろう。木漏れ陽がまだらに揺れる庭のテーブルで、枝葉の影をまだらに受けつつ思った。


sunday morning白湯を飲みつつ空を眺める。

本日も。淡い。