笑えない | かや

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果てしなく広がる時空を表現する言葉に「三千(さんぜん)」がある。
三千と聞いて有名なのはなんと言っても李白の「秋浦(しゅうほ)の歌」だろう。

白髪三千丈
縁愁似箇長
不知明鏡裏
何處得秋霜

白髪(白髪)三千丈(さんぜんじょう)
愁(うれ)ひに縁(よ)って 箇(かく)の似(ごと)く長(なが)く
知(し)らず 明鏡(めいきょう)の裏(うら)
何(いづ)れの処(ところ)にか 秋霜(しゅうそう)を得(え)たる

(鏡にてらして我と我が顔を見れば)白髪は三千丈もあろうかと思われるほど。思うに心につもる憂いのために、かくも長く伸びたのであろう。鏡の中なる我が白髪をじっと見つめるにつけても、どこで、この白髪を得たことやら。

結句の秋霜は白髪をたとえた語だ。
李白が秋浦に仮住まいをしていた時、自分の老境を嘆じて歌ったもので人生の挽歌でもあり、大変有名な詩だが、三千丈は決して誇張ではなく、その時の実感を忠実に表現したもので、詩的迫真性が必ずしも事実と一致するものでないことを了承すべきだと解説には示されているが、過ぎた歳月と老いに対する嘆きを見事に起句の白髪三千丈に表した名句だろう。


日本では「三千」を永遠の意味の「三千年(みちとせ)」として、平安時代から賀の歌に詠んできた。

また仏教では全宇宙を「三千世界」と呼ぶ。
もとは三千大千世界と言い、仏教の世界観における宇宙の単位だ。大乗仏教においては一人の仏が教化する世界のことで、宇宙は無数の三千大千世界から成る。
仏教の世界観では須弥山を中心として日・月・四大州・六欲天・梵天などを含む世界を一世界とし、この一世界が千個集まったものを小千世界と言い、小千世界が千個集まったものを中千世界と言い、中千世界が千個集まったものを大千世界と言う。
この大千世界を三千大千世界とも言い、略して三千世界、三千界とも言う。

三千を用いた俳句に李白調に詠んだ蕪村の「心太(ところてん)さかしまに銀河三千丈」や、子規の「三千の俳句を閲(けみ)し柿二つ」また与謝野晶子の「三千里わが恋人のかたはらに柳の絮(わた)の散る日来(きた)る」など、三千を用いることでいっそう表現が豊かになって詠む者に訴えてくる。


李白のあまりにも有名な「白髪三千丈」だが、それにしても、嘆きを感じいずにはいられない素晴らしい表現だ。
さすがに李白と思わざるを得ない。
李白は他にも同じく三千を用いた歌「廬山(ろざん)の瀑布(ばくふ)を望む」の転句に飛流直下三千尺と滝の落ちていく様子を表現している。
この詩は、廬山の香炉峰を朝の太陽が照らすと、山気が紫色の煙となって見え(天然の大きな香炉に見立てられ)、大きな布を、眼前の川に掛けたかのような滝が、遥かに眺められる。その勢いの雄大なことは、飛ぶがごとき早い流れが、一気に三千尺の高さから落下し、まるで天の川が天空から落ちて来るのかとまがうばかりだ。という内容だが、李白らしい着想とスケールを感じる名句は長大な瀑布に三千尺を用いることで、いっそうその迫力が視覚的に鮮やかに浮き上がる。

「三千」という語には長大で果てしない時空がこめられている。その文脈或いは詩情が際立ち、想像を刺激される言葉であることに違いは無い。
これらの表現を見るにつけ、作者の想像力に読む側は稼働せず眠っていた五感が呼び覚まされ鮮明さを増していく。
想像力は何らかの刺激によって増幅するのだなと分かる瞬間でもあるし、表現された語から描き出された情景が読む側の想像力に委ねられているという一端もあることを思うと、その想像力が欠如していれば、ずいぶんと貧弱な、或いはとんちんかんな光景が浮かぶことになるのだろうなと思うし、表現から情景を積み上げて浮かべていくという回路と状況から心情を汲み上げて把握していくという回路は似ても感じる。想像力の欠如は時に笑えない事態を招くことにもなる。


monday morning白湯が心地良く全身に巡り渡る。

本日も。特に何も無く。