力量 | かや

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かやです。



昨日、朝食に立ち寄る幾つかの店で和食のひとときを過ごした。窓ガラス越しの中庭に降る薄い雪は薄墨を引いたように静けさを美しく描き出し、まるで一幅の水墨画を見るようだった。
食後、移動し、簡単な打ち合わせ後、移動し、ヘアサロンでシャンプーブローを済ませた頃には、雪はあっさり消滅してしまい、街は冷たい空気の残骸を纏い、鈍く白い空を映して妙に明るく、そして、澄んでいた。
幾つかの居住場所のひとつに向かう途中、コールドプレスジュースの店で、人参、レモン、キクイモのデイリージュースキャロットという名のジュースと、ビーツ、リンゴ、レモン、ケール、小松菜、ホウレン草、セロリ、人参、生姜のブラッディビーツという名のジュースを選び、何日かぶりの住まいに戻る。


留守番の人から留守の間の報告を聞き、届いていた郵便物や宅急便などを受け取り、雑用を済ませ、一段落したタイミングで、留守番の人がダマスクローズティーを運んでくれた。
ブルガリア産のダマスクローズの花蕾を浮かべたもので、ゆっくりとカップの中で花を開いていく。以前はしばしば飲んでいたが、最近はすっかりダマスクローズ自体を忘れていた。カップを近付けるとダマスクローズの香りがいっぱいに広がる。その優しい香りを堪能し、ひと口飲んだところで、ふと、朝食の時に眺めた降り積もりつつある薄い雪に覆われた水墨画のような庭を思い出した。
部屋を出て、書棚の並ぶ部屋に行き、李鱓(りぜん)の『中国古代絵画精品集』を棚から取り、再び、部屋に戻り、頁を捲りつつ、ダマスクローズの香りに包まれて過ごした。

李鱓は江蘇省興化の人で康熙帝によって蒋廷錫(そうていしゃく)に師事せよと命ぜられ、宮廷画家として工筆花鳥画を学んだが画院に入れず、退官して揚州南郊に浮漚(ふおう)館を建てて住み、画家林良(りんりょう)に私淑して奔放な筆勢による花卉(かき)・樹石を得意としたと言われている。作品は東京国立博物館や中国美術館に収蔵されている。
この作家の贋作は多く、慎重な鑑定が必要だと以前骨董商が言ってたが、真贋を見極めるのは難しいだろうと思う。

中国大陸では殷の時代には墨が使用され、墨を用いた絵画は漢の時代には既に存在し、漢代の壁画などには墨による線と顔料による着色によって描かれたものが現存している。そして、唐代には墨の濃淡で表現する絵画が制作されるようになり、水墨画は唐代後半に山水画の技法として成立し、九世紀絵画史家張彦遠(ちょうえんげん)が墨色には万物の色彩が含まれているとし「墨色に五彩あり」と画論で述べている。

五彩は無限の色ということだ。墨が表現する色は絵の具では表すことの出来ない色でさえ描き分けることが出来るという意味を含んだ言葉だが、墨の濃淡に色を描くのは見る側の想像力に委ねられているということで、想像はいかようにも広がるし、想像力が欠けていれば、ただの墨色だ。
庭園デザイナーで曹洞宗特雄山建功寺住職の枡野俊明氏が著書の中で、坐禅における喝というひとつの音は無限の言葉を伝えている、それをどのような言葉として受けとるかは想像力に委ねられている。そして水墨画もまたどのような色を感じるかもまた想像力に委ねられているという意味で、禅文化、日本文化は「力量」を問われるものだと記している。

想像力が欠如していると、時に大きな過ちを犯すこともある。ある程度の力量を備えていないと、感情豊かにその感性のままを言葉に出し、それが一方向的なものであれば、誰かを傷つけたり、時に怒りを買うことにもなる。全体を見ずにただ局所のみに囚われて発露する感傷は特に気を付けないと、ただの身勝手で安い悲哀に過ぎないし、誰も同調はしないだろう。安直な感傷ほど色々諸々欠けていて困ったものは無いし、想像を及ばせないことほど傍若無人な状態は無い。


saturday morning白湯が心地良く全身に巡り渡る。

本日も。特に何も無く。