サングラス | かや

かや

かやです。



今日も盛大に視界が霞みボヤけていると思いながら、幾つかの居住場所のひとつの住まいで庭を眺める。
手首から切断された掌が落ちている。
ようにしか見えず、一メートルをゆうに切った至近まで近付いて、腰を屈めて見れば、それが乾いて縮れた茶色の大きな枯れ葉と気付く。
暫く庭で佇み、屋内に戻ってから、出掛ける仕度をする。

心弾む曇天はどこまでも暗く陰鬱に、しかし、仄かな明るさを滲ませて、大地に薄墨を落としている。
時折通り抜ける公園は今にも雨粒が降りてきてもおかしくないくらいに湿気ていた。静寂が沈殿した園内は人ひとり居ない。ゆっくりと歩を進めつつ、見上げた空は雲を全体を平らに鞣して鈍く白の単色だ。
落葉樹の木立は葉をほぼ落剥させた枝ぶりが美しい紋様を此処彼処に作り出し、常緑樹は乾いた緑を湛えている。出口とも入口ともなる場所に待機した車に乗り込むまで、人の気配は全く無いままだった。公園も公園を出た先の並木道も辺り全体の色彩が消えてまるで滲んだ水墨画のようだ。


表現として、薄墨色という単語は字面も音も美しいが、この混じりけの無い鼠色を表した薄墨色は字の如く、薄い墨色で、墨を十分にすらず、水気の多いものがこの色だ。薄墨色に染めた薄墨衣は喪服だし、昔は凶事を知らせるのに、薄墨で手紙をしたためた。したがって薄墨色という伝統色のこの色名は優雅に思えるが、かつては凶事を想起するとことから嫌う人もあったようだ。この薄墨色に近い色に薄鈍(うすにび)がある。薄鈍はしばしば平安文学に登場している。『源氏物語』の「月ごろ黒くならはしたる御姿、薄鈍にて、いとなまめかしくて」や、『枕草子』の「あるかなきかなる薄鈍、あはいも見えぬうは衣などばかり、あまたあれど、つゆのはえも見えぬに、おほしまさねば裳も着ず、絓(うちぎ)すがたにてゐたるこそ、物ぞこなひにて、くちおしけれ」「あるかぎりの薄鈍の裳、唐衣(からぎぬ)、おなじ色の単襲(ひとえがさね)、くれなゐの袴(はかま)ども着てのぼりたるは、いと天人などこそえいふまじけれど、空より降りたるにやとぞ見ゆる」
薄鈍は喪服の色ではあるけれど、優美で上品な色だった。


マシンピラティス&コンディショニングやヘアサロン、ティータイム、2、3の事務的な所用などを片付けたり、変わらない日常が過ぎて夕刻、ニューヨークのアッパー・イースト・サイドに住居を持ち、その住居から車で少しの場所にlaw officeを持つ友人男性がここ何日か日本に戻っていて、他に学生時代の共通の友人男性と一年ぶりの再会を銀座の鉄板焼きの店で合流し、夕食のひとときを三人で過ごした。
眼前で色々な食材が焼かれる中、懐かしい話題や互いに知らない各々の近況など、ゆったりと会話が進む。
「そう言えば」と、右側に座ったニューヨークの友人が「ひとつ聞いて良い?」と言った。
「どうぞ」と応えると、「今日は何故サングラスをしているの?」と友人が言う。
「そうそう、僕も思った」と左側に座ったもうひとりの友人。そこではじめて気付いたが、私はずっとサングラスをかけていた。
厳密にはピラティスやヘアサロンの後、移動の車でサングラスをかけた、と、言っても遮光目的では無く、度入りのサングラスで、かなり色は薄く更にはグラデーションになっている。
手を目元に触れると確かにサングラスを私はかけていた。
幾つかの用事の途中、パウダールームは使っていたが、あれだけミラーがある中で、手を洗ったりしていて、全く自分を見ていないまま、気が付かなかった自分に呆れる。
「サングラスをかけていたこと自体忘れていたけれど、それにしても、全然気が付かなかった」と応えて、サングラスを外した途端、今までくっきりと見えていた視界が一瞬にして靄がかかり、全てがボヤけた。
それまで度入りのレンズのおかげで何もかもがまるで定規を使ってきっちり線を描いたかのようにハッキリと各々が孤立して見えた全てが各々が滲み合い、悉くが色彩さえも曖昧に混ざり合ってしまっている。
普段、こんなに見えていないのかと知る瞬間だが、いつものボヤけた視界にすぐに馴染んだ。


sunday morning白湯が心地良く全身に巡り渡る。

本日も。力一分ほど。


 本当だったら相当賢く相当可愛いけれど、そうでないと分かっていても相当可愛くクセになる。