相変わらずの一日 | かや

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悼亡

夜窓紡績伴書檠
四十餘年夢一驚
満腹悲辛無遣処
還知壮叟鼓盆情

悼亡(とうぼう)

夜窓(やそう) 紡績(ぼうせき) 書檠(しょけい)に伴(ともな)ふ
四十余年(よんじゅうよねん) 夢一驚(ゆめいっきょう)
満腹(まんぷく)の悲辛(ひしん) 遣(や)る処(ところ)無(な)し
還(かえ)って知(し)る 壮叟(そうそう) 盆(ぼん)を鼓(こ)するの情(じょう)

菅茶山(かんちゃざん)の七言絶句。揖斐高氏『江戸漢詩選』によれば、菅茶山は延享5年(1748)―文政10年(1827)、本姓は菅波、修姓して菅、名は晋帥、字は礼卿、通称は太中、号は茶山。写実的で感情豊かな詩を能くして、山陽道随一の詩人として広く名を知られ、黄葉夕陽村舎(こうようせきようそんしゃ)と号した書斎には山陽道を往来する詩人・文人たちの来訪が絶えなかった。詩文集に『黄葉夕陽村舎詩』前編・後編・遺稿の他、和文体の随筆『筆のすさび』などがある。

意。妻が生きていた時には燭台の明かりを共用して、夜の窓辺で私は読書をし、妻は糸を紡いだものだった。四十余年間の夫婦生活も今となっては夢のように覚めてしまった。体中に満ち溢れる辛い悲しみの遣り場が無い。妻を亡くした老いた荘子が盆を叩いて歌を歌っていたという気持ちがあらためてよく分かる。


承句の「夢一驚」は夢に驚いてはっと目覚めるという意味だが、金末元初の耶律楚材(やりつそざい)の「天城に過(よぎ)りて靳沢民(きんたくみん)の韻に和す」詩に見える「倏笏(しゅくこつ)たる栄枯夢一驚(えいこゆめいっきょう)」から引いている。
また、結句「荘叟鼓盆情」は、『荘子』至楽の故事に拠る。
故事は、荘子の妻が死んだ時に恵子(けいし)が弔いに行くと、荘子は足をくずして盆(土の瓶)をたたきながら歌っていた。それを見た恵子は、妻が死んだというのに、泣きもしないで盆をたたいて歌うというのは、あまりに不人情ではないかと非難した。これに対して荘子は、妻が死んだ当初は私も悲しくて仕方が無かったが、よく考えてみると、もともと人の命というものは絶対不変なものとしてあるわけでは無く、何だかよく分からない気というものが変化して命になったのだ。死とはそれがもとの気に戻ってゆくのだから、泣き叫ぶべきことではないのだと思い、こうして歌うことにしたのだと答えたというものだ。
この故事に拠る詩は中国の詩人たちの詩にもしばしば引用され、宋の黄庭堅(こうていけん)の「再び陳季張に拒霜花を贈る二首」詩に「鼓盆(こぼん)の荘叟(そうそう)情(じょう)を賦(ふ)して濃(こまや)かなり」がある。

このような経緯を知ると詩はひときわ面白味を増す。
江戸漢詩の大方と言ってしまっては過言だが、中国詩や故事を引いているものが少なくないし、嗚呼、面白いなと目を引く表現は中国詩人の表現を使っていたりすることがとても多い。中国漢詩や故事が古くから行き渡っていたことが分かるのはこの七言絶句に限らず、小説や能、様々な分野に見ることが出来るからだが、元となる漢詩や故事も更に読む味わいが増す。そして、私感だが、やはり、元となる詩の方が当たり前だが格段に表現が自然であり、感銘を覚える。


昨日、午前中、シーボニアから出発した友人のクルーザーでゆっくりとクルージングし、やや遅めの昼はクラブハウスレストランで三浦野菜のサラダや鮮魚のソテーやポタージュ他、友人は葉山牛のハンバーガーやパンケーキなど、アラカルトで色々選び、飲み物は自家製レモネード、デザートはアフォガードなどでひとときを過ごす。真鯛のポワレのキノコチャウダー仕立てが特に美味しかった。フィッシュチャウダーはずいぶんと久しぶりだった。

夕刻、幾つかの居住場所のひとつに戻る。
庭におりると、何日か前、すっかりイチョウが葉を落とし、地面を眩い黄色に重ねていたが、留守番の人が悉くを掃いたばかりだったようで、濃い茶の地面があらわになっていた。
それでもイチョウの低い枝にまだ数えきれる位のささやかな黄葉が今にも風に剥がされそうになりながら、微風に揺れている。
木陰のテーブルでしばし過ごし、そして、屋内に戻り、様々な書家の作品が載った本を眺める。
色々な書の中に、黄庭堅(こうていけん)の「伏波神祠詩巻(ふくはしんししかん)」の書が目に飛び込んできた。何十何百回と眺めている書の本だが、その時その時によって、目を惹く書は異なる。
昨日はそれが黄庭堅だった。
ちなみに伏波神祠とは、水難を守る神として当時の人々に信仰されていた漢の馬援(ばえん/伏波将軍)の霊をまつった祠のことだが、この詩の後にある黄庭堅の自跋に荊州であった大水のあった時のことが記されている。
書は黄庭堅によれば、背中にデキモノが出来ていたため、手が思うように動かず、字にならなかったと言っているが、大胆かつ強烈な印象を与える作品だ。
しばし、黄庭堅の書を眺めていたが、ふと、詩人としての黄庭堅の作品を幾つか思い出し、荘子の故事を引いた黄庭堅の詩から菅茶山の七言絶句を思い出した。
というような。昨日も散漫と呼ぶ他無いような代わり映えの無い相変わらずの一日。


friday morning白湯を飲みつつまだ明けない空を眺める。

本日も。淡い。