1年はさびしいので、1年半 | かちぃの☆卵巣がん☆ブログ

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卵巣がんになってからのことを書いています。
いろいろな気持ちを書いています。
泣き言やネガティブな本音も多いです。
クライ話が嫌いな方は読まないでね。

きのう、むかつく話を聞いて。
その時は、あんまりばからしいので笑ってしまったけど、後になって思い出してはむかついている…。

何がどうむかついているのかを考えるのもめんどくさいような小さいつまらないことで、当事者には悪意はないのかもしれないけど、その無神経さとか、言葉の選び方の稚拙さとかが、状況や内容によっては人を怒らせたり傷つけたりうんざりさせたりするって類のこと。だと思う。
とはいえそれは、「うっかり」とかいうのとは違うもので、人となりの表れではあるから、軽くスルーできない私。
そして、当事者に悪意がないかどうかが微妙だったりすると、悪意についても勘ぐりたくなるわけで。

きのうのことでは、むかついている自分の中にいちばん浮かんでくることは、

そんなふうに考えてられるなんて、いいよね~、のんきで。

ってこと…かな。
いろんな意味での嫌悪感がむくむく。

最近、「この人とは言葉の感覚が合わない、無理、耐えられない」と思うことが多い。
年を取ってこらえ性がなくなってきているのだろうなぁ。
あと、自分にとって真剣で深刻なことに関してのちゃかしや、適当さや、考えの浅さというのに対して、許容のゆとりがなくなった。すぐにむかついてしまう。
余裕がなくなってるのでしょうね。

やっかいなことなり…。

しかし、人との関わりの中にこそよろこびもあるというもの。
どっちもアリでいきましょう!

チューリップ赤
今日は、くだらないむかつきが影響して、ちょっと心配なことや、ちょっとめんどくさいことや、ちょっとした不調など、いろんなことがわさわさと揺れ出して、気持ちもざわざわ、いらいら。
やけ食いしたくなる~。
で、本日も食べ過ぎなり。

チューリップ赤
「1年後はいないかも」「1年後に生きてるかな」と思うと、すごくさみしい。
だから、「あと1年半は大丈夫」と思うことにしている。
まぁ、「半」にはあまり意味はなくて、とにかく、「来年の今頃の、その先だ」と思うと、なんだか焦りがおさまって、元気が出る。

いまはそうだけど、この先もずっとこういうふうに思えるかはわからないけども…。


ぼーずの新学期が始まって、学童へ行かない生活になって、新しい生活習慣をつくろうとしてるところなので
「あと1年、大丈夫だろうか?」
ということを、ちょくちょく思う。

学童に行かずにヒマになった分、新しい習い事をさせたい。だけど、ぼーずが「やってもいい」と思うものがあまりないうえに、習い事は親が送迎ができるのかどうかも重要なので、それについて私の可能性をシビアに考えると、どれも難しいな…という話になってしまう。

でも、いまは、そこについても「あと1年半は大丈夫」ということにしてしまうことにした。
じゃないと、なにも進まない。

1年半後には、ぼーずはきっとかなり成長しているはず。そのときには、親の送迎はほとんど必要なくなっているだろう。

もしも、1年半よりも前に私が送迎できなくなったとしても、そのときに知恵を絞って、多少の出費も覚悟すれば、なんとかなる。
もしかしたら、そのときまでにぼーずはひとりで行けるようになっているかもしれない。
帰り道は子どもひとりでは危ないようなときは、ぐふが迎えに行くのを待たせるとか、ファミサポさんとか、最終手段でシッターさんを雇うとか、短期間ならなんとか無理することもできるだろう。
どうしても、なんとかならないときには、いったん休めばいい。そして、また再開すればいい。

なんとかならなくても、それも一時のことのはず。そこを心配しすぎないようにしよう。
それに、「いまのうちに、私がなんとかできることはしておこう」とか思いすぎないようにしよう。「いまのうちになんとかできること」は一部でしかないから、将来に備えているつもりが、逆に今も将来も窮屈に考えることになってしまいそう。

私が前もって何かしらの段取りができるとしても、それを何かの足しにするくらいで、ぼーずとぐふにはもっとその場で知恵を絞ってなんとかしてみてほしいな。
そのときは、がんばれ、ぼーず。
ぐふも、がんばれ。