生きるちから | のんびりかあさんの日記

のんびりかあさんの日記

娘(9歳)は喘息でアトピー。息子(6歳)は食物アレルギー。



家族みんなの健康のために

『なるだけ手作り』かあさんの日々です。

私達はそれぞれに『生きるちから』をもっています。

それは、弱々しくちっぽけなものでしょうか?
人間は無力な存在でしょうか?

私は、子供達のアレルギーを通して、そのことを見つめてきたように思います。

娘はアトピーで喘息。息子は食物アレルギーがあります。
この体質を何とかしてあげたくて、食事やおやつを手作りで、
掃除は拭き掃除で、洗濯は洗剤ほとんど使わずに.....と、
色々なことをやってきました。

でも、病院に行けばそれこそ山のような薬....。
だんだんと疑問を感じるようになりました。

この子達はアレルギーがあるけれど、命はこんなにきらきらと輝いている。
この子達の持つ『生きるちから』はそんなにやわじゃないのでは?
薬を飲ませ、ただ症状を押さえ込むことは、生きるちからを輝かすことにつながっているだろうか?

そう思って、また色々と調べてみました。
辛い症状が出た時に、薬を使わずに済ませる方法はないものか?

そうして見つけた、様々な方法に助けられながら、徐々に薬をやめていきました。
毎日の体調、使った薬、使わなかった薬、食事内容、生活内容を書き取り、
子供達の様子をつぶさに観察しながら、ゆっくりと。

メモをとる事は、後から客観的に判断する材料になりますし、
体調を大きく崩して病院へかかる時にも役立ちます。

そして、色々やってどうしてもダメな時は一段階戻ってみる(病院にかかる、薬を使う)
という勇気もまた必要でした。

今現在、子供達が常用しなければいけない薬は無くなりました。

しかし、この方法は全ての方に当てはまるものではないと思います。
我が子達は、比較的症状が軽かったから、この程度の事で何とかなったのか?とも思います。
そして、全ての西洋医学を否定するつもりもありません。

今年の9月、すももさんのブログ(記事『アトピーの不思議(5)』←ここをクリックして下さい)
で、『なにもしない』ということについて、触れられていました。

目の前に起きてくる症状に対して『なにもしない』ということ。
これはとても深いです。

この記事とコメントのやり取りを読んで、はじめは混乱しました。
さんざん色々やってきた事、これはいけない事だった?
どうすれば良かったのだろう?
そう思って、真摯に答えを求めた時『楽しみなさい』と、言われた気がしました。
空から言葉が降ってきたような感覚でした。

『楽しむ』ということは『命をまるごと受けとめる』という意味だと思いました。

眉間にしわを寄せ、背中を丸めてピリピリしながら頑張っても、
見える世界は限られている。
背筋を伸ばして、両手を広げて、命をまるごと受けとめたなら、
きっともっと広い世界が見える。

そういう風に受けとりました。

それから約2ヶ月。
偶然(というか必然なのでしょうが)読んでいた本から、
『なにもしないこと』へもう一歩理解を深めるヒントをいただきました。

一切の執着を捨てる事。その先にある『無心』
相手(私の場合は子供達)との完全な調和、同化、共鳴。
そうした時に、初めて見えるものがある。

『なにもしない』
ということはそこへ繋がっていたのか~!と
とても納得できました。
心のあるべきところに、ストンと何かがはまったようでした。

全く天にお任せの『無心』という状態は、さんざん努力した結果として訪れるもの。
はじめから天ばかりあおいで「何とかして下さい!」とすがっても、
先へは進めなかった。

だから、私が今までやって来た全ての事は、今、ここへ繋がる大切なプロセスだったと、
心の底から納得できました。

人間は、無力でもちっぽけでもありません。
自分の足でしっかり立って、自分の目でしっかり見つめて、自分の頭でしっかり考える。
誰かのせい、何かのせいにして逃げる事をやめてみる。
決心すれば出来る事。

それが私達のもつ『生きるちから』なのかな?と思いました。


まとまりの無い長い文章を、最後まで読んで下さって、本当にありがとうございました。