私達はそれぞれに『生きるちから』をもっています。
それは、弱々しくちっぽけなものでしょうか?
人間は無力な存在でしょうか?
私は、子供達のアレルギーを通して、そのことを見つめてきたように思います。
娘はアトピーで喘息。息子は食物アレルギーがあります。
この体質を何とかしてあげたくて、食事やおやつを手作りで、
掃除は拭き掃除で、洗濯は洗剤ほとんど使わずに.....と、
色々なことをやってきました。
でも、病院に行けばそれこそ山のような薬....。
だんだんと疑問を感じるようになりました。
この子達はアレルギーがあるけれど、命はこんなにきらきらと輝いている。
この子達の持つ『生きるちから』はそんなにやわじゃないのでは?
薬を飲ませ、ただ症状を押さえ込むことは、生きるちからを輝かすことにつながっているだろうか?
そう思って、また色々と調べてみました。
辛い症状が出た時に、薬を使わずに済ませる方法はないものか?
そうして見つけた、様々な方法に助けられながら、徐々に薬をやめていきました。
毎日の体調、使った薬、使わなかった薬、食事内容、生活内容を書き取り、
子供達の様子をつぶさに観察しながら、ゆっくりと。
メモをとる事は、後から客観的に判断する材料になりますし、
体調を大きく崩して病院へかかる時にも役立ちます。
そして、色々やってどうしてもダメな時は一段階戻ってみる(病院にかかる、薬を使う)
という勇気もまた必要でした。
今現在、子供達が常用しなければいけない薬は無くなりました。
しかし、この方法は全ての方に当てはまるものではないと思います。
我が子達は、比較的症状が軽かったから、この程度の事で何とかなったのか?とも思います。
そして、全ての西洋医学を否定するつもりもありません。
今年の9月、すももさんのブログ(記事『アトピーの不思議(5)』←ここをクリックして下さい)
で、『なにもしない』ということについて、触れられていました。
目の前に起きてくる症状に対して『なにもしない』ということ。
これはとても深いです。
この記事とコメントのやり取りを読んで、はじめは混乱しました。
さんざん色々やってきた事、これはいけない事だった?
どうすれば良かったのだろう?
そう思って、真摯に答えを求めた時『楽しみなさい』と、言われた気がしました。
空から言葉が降ってきたような感覚でした。
『楽しむ』ということは『命をまるごと受けとめる』という意味だと思いました。
眉間にしわを寄せ、背中を丸めてピリピリしながら頑張っても、
見える世界は限られている。
背筋を伸ばして、両手を広げて、命をまるごと受けとめたなら、
きっともっと広い世界が見える。
そういう風に受けとりました。
それから約2ヶ月。
偶然(というか必然なのでしょうが)読んでいた本から、
『なにもしないこと』へもう一歩理解を深めるヒントをいただきました。
一切の執着を捨てる事。その先にある『無心』。
相手(私の場合は子供達)との完全な調和、同化、共鳴。
そうした時に、初めて見えるものがある。
『なにもしない』ということはそこへ繋がっていたのか~!と
とても納得できました。
心のあるべきところに、ストンと何かがはまったようでした。
全く天にお任せの『無心』という状態は、さんざん努力した結果として訪れるもの。
はじめから天ばかりあおいで「何とかして下さい!」とすがっても、
先へは進めなかった。
だから、私が今までやって来た全ての事は、今、ここへ繋がる大切なプロセスだったと、
心の底から納得できました。
人間は、無力でもちっぽけでもありません。
自分の足でしっかり立って、自分の目でしっかり見つめて、自分の頭でしっかり考える。
誰かのせい、何かのせいにして逃げる事をやめてみる。
決心すれば出来る事。
それが私達のもつ『生きるちから』なのかな?と思いました。
まとまりの無い長い文章を、最後まで読んで下さって、本当にありがとうございました。