KENのBLOG 宇宙大調和 日本国国防 日本版緑の書

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2024年8月に60歳を迎え還暦となった私、KEN が改めて日本国に生まれ、日本国を心から愛する、私たち日本の国土に住む全ての民が知るべきことなどを、改めて2025年1月1日から発信します。心の片隅にささやかな情報としてストックしていただければと思います。

日本では半数、選挙によっては7割が投票に行きません。

投票は「義務」ではなく「特権」です。

以下はChatGPTへの質問と回答です。

 

Q

世界の選挙権の歴史について教えて下さい。今日本では投票率の低さが問題になっていますが、世界各国ではこれまで選挙権を国民が獲得するにあたり大変な戦いがあったと聞いています。世界各国の選挙権を勝ち取る戦いの歴史について国別に事例を挙げて教えた下さい。

 

イギリス:労働者と女性の闘争

概要:

イギリスは議会制民主主義の原型を作った国ですが、選挙権が最初から広く与えられていたわけではありません。

主な闘争:

  • 1832年:第1回選挙法改正
     地主などの富裕層に限定されていた選挙権を、都市の中産階級へと拡大。

  • 1838年~:チャーティスト運動
     労働者が普通選挙を求めて大規模な運動を展開。弾圧されながらも選挙法改正の道を開いた。

  • 1918年:第一次世界大戦後の改革
     30歳以上の女性と21歳以上の男性に選挙権。

  • 1928年:完全な男女普通選挙へ


フランス:革命の果ての普選

概要:

フランスでは選挙権の拡大が革命と密接に関係しています。

主な闘争:

  • 1789年:フランス革命
     自由と平等を求める革命の中で、選挙権の議論が始まる。

  • 1848年:2月革命
     男性普通選挙が実現。

  • 1944年:女性の選挙権獲得
     ナチス占領下のレジスタンス活動に女性も参加し、戦後女性参政権が認められる。


ドイツ:帝政崩壊と女性の権利

主な闘争:

  • 1919年:ヴァイマル憲法
     第一次世界大戦後、ドイツ革命により男性・女性ともに普通選挙権が認められる。

  • ナチス時代には選挙制度形骸化
     民主主義の回復は戦後の再建と共に。


アメリカ:市民権を巡る闘争

概要:

アメリカは建国時から民主主義を標榜しましたが、実際には制限が多く、様々な人々が権利を勝ち取る闘争を繰り広げました。

主な闘争:

  • 19世紀後半:黒人男性への選挙権(第15修正)
     南部では差別的な制度(識字テスト、投票税など)により実質的に剥奪。

  • 1920年:女性参政権(第19修正)
     「サフラジェット」たちの粘り強い運動の結果。

  • 1965年:投票権法
     黒人への差別的制度撤廃。キング牧師の「セルマ行進」などが大きな契機。


日本:敗戦後に普通選挙制

主な闘争:

  • 1925年:男子普通選挙権(25歳以上の男子に)

  • 1945年:女性参政権獲得
     GHQによる民主化政策の一環。敗戦後の改革で男女平等な普通選挙が実現。

  • それ以前は、納税額や性別により制限された制限選挙だった。


ニュージーランド:世界初の女性参政権

  • 1893年:世界で初めて女性に選挙権を認めた国。

  • マオリ女性も対象となっており、先進的な制度。


南アフリカ:アパルトヘイトの克服

  • 1994年:ネルソン・マンデラが初の全人種選挙で大統領に

  • それまでは白人中心の政治で、黒人は選挙権が制限されていた。


韓国:軍政から民主主義へ

  • 1987年:6月民主抗争
     学生と市民による大規模デモで直接選挙制の回復を勝ち取る。

  • それ以前は軍事政権による制限的な選挙体制。


結論:選挙権は「闘って得たもの」

選挙権は、暴力的弾圧や差別、無視と戦いながら市民が勝ち取った人類の成果です。
だからこそ、投票は「義務」ではなく「特権」であり、民主主義の根幹を支える行動です。

テレビがない生活の始まり

 

 ひな祭りの昨日、テレビ回線、もちろんNHKも解約し、60歳にして思えば生まれて初めてテレビがない生活が始まりました。いわゆるオールドメディアと決別したわけですが、すでに私の息子のような若い世代はテレビを見る人がすっかり減っていますし、昨年来オールドメディアの信用がすっかり失墜している今、これまでの人生でどれだけの時間をテレビに奪われてきたかを思えば私など遅かったくらいなのですが、朝や食事の時に何となく習慣でつけていたテレビがなくなるというのはとても良いことだと感じています。

 

 私は幼い頃からテレビは大好きでした。漫画や映画、バラエティ番組、ドラマ、スポーツ、ドキュメンタリーなど、間違いなく楽しませてもらったことは事実で、私自身もスケートの選手時代はささやかでもテレビに映っていましたから、人生においてもテレビというメディアには少なからずお世話になっていた訳なんですね。

 

 テレビを見るのをやめた理由はやはり2020年のコロナ騒ぎの始まりがきっかけで、大騒ぎしているニュースや報道を見て「何かおかしい」と感じたからなんですね。私の場合は幸いなことに2020年の3月にはコロナ騒ぎが地球規模の欺瞞だと気づいたわけですが、少なくとも今日まではメディアの嘘とそれを信じ切っている罪なき民との闘いの日々でした。今思い出しても本当に悔しい思いもしたんですね。

 

 コロナ騒ぎの前年の2019年に、奈良県桜井市の大神神社の三輪山でスピリチュアルな体験があってから、人間には波動、周波数があり、目に見えない世界がある、そんなことに気が付いて以来、嘘を言っている人、演技をしているだけの人の事もだいたいわかるようになっていたんですね。それでも世の中が正常な間は私も相変わらずお笑い番組なんかを見てはゲラゲラとアホみたいに笑っていたんです。

 

 ところが2019年の年末ごろから中国の武漢でコロナ騒ぎが始まって恐ろしい映像がどんどんとテレビで流れるようになったんですが、こんなことが日本にまで広がったら大変だな、いやだな~なんて思って見ていたんですね。それが日本にもコロナが飛び火して、騒ぎが大きくなり、アナウンサーという職業の人たちが毎日叫んでいるわけです。恐怖を煽りまくる姿ですね。そのどれもが全く信用できず、大げさに演技をして台本を読んでいることはべつに私でなくても誰でも見破れたと思うのですが、恐怖という感情があるとそういう直感が鈍くなるんですね。おそらく多くの方が後で当時のニュースを見れば「なんであんな嘘に騙されたのか」と思うほど酷いフェイクニュースと、全ての番組で演技をしていることが丸出しなものばかりだったと気づくと思うんですね。演技をしているのは単なるテレビに出演するタレントやアナウンサーだけでなく、政治家もまた演技をしているだけで国民のことなど一切考えない集団なのだということを初めて知ったんですね。

 

 こうなればテレビの見方が「情報をとる」から「どうやってテレビは国民を騙すのか」というものに変わったんですね。あの当時からニュースは基本的にフェイク(印象操作とも言いますが)で、恐怖を煽り、国民を騙すために偽の情報を制作して流していることが相当にバレていたのですが、そのこと自体をテレビは報道しないですしもちろん謝罪などしませんから、騙されている人は騙されっぱなしということになっているわけです。

 

 いったいテレビは日本人にとって何だったのか、そんなことを調べていくと戦後のGHQによる占領政策、3S(スクリーン、スポーツ、SEX)政策で日本人を白痴化する政策、繰り返し嘘を流すことで日本人を洗脳するなど、テレビの存在理由自体がそのためのものなのだということがインターネット、SNSの時代の今日ではすぐにわかるんですね。

 

 テレビ番組の騙しの手口もバレバレなものから実に巧妙なものまで、そのパターンは様々で、私の言い方では「真実に嘘を練り込み、嘘に真実を練り込み、観るものの思考を攪乱し、判断できないようにする仕組み」がとてもうまく利用されていることが解ります。そうなった人が言うことはだいたい同じで「何を信じていいのかわからない」なんですね。私みたいなのがテレビと真逆のことを言うから混乱するんですね。大切なことは疑う能力を養うことで、それは外国人から言われることですが「日本人には物事を疑う能力がない」、これが問題なんですね。ニュースバラエティなどでは真実をお笑い芸人にしゃべらせることで真実を真実ではないように見せたり、クライシスアクターを使ってヤラセをやったり、感動的な教養番組の中に反日を練り込んだりと、挙げればきりがないほど悪質なことをテレビメディアはやってきたんですね。わかりやすかったのは今騒ぎが起きているテレビ局がやった2020年春の「てりたまバーガーフェイクニュース」でしたね。

 

 私はトランプ大統領の就任で世の中は相当に良い方向に変わると思いますが、こんなことを言っても誰が信じますかね。極めて少数派だと思います。メディアの嘘を多くの国民が相当リアルに感じたのは昨年の兵庫県知事選挙だったのではないかと思います。あれを機にテレビ離れは急加速したと思いますが、全てのテレビメディアが嘘をついて斎藤知事を追い詰めたわけですが、選挙でそれを覆したのがSNSとそれによって真実を知った民意だったんですね。色んな意味でオールドメディアとニューメディアの潮目が変わった事件でしたね。SNSは玉石混交、そう言ってオールドメディアも政治家もSNSを抑え込もうとしていますが無理ですね。真実はSNSにしかありませんね。オールドメディア、テレビは日本人を洗脳する機械であって基本的に全てに嘘が練り込まれているんですね。気象情報や災害情報くらいは真実を語って欲しいとは思いますが、それすらどうも怪しい、そう思った方が良いようですね。

 

 ジョージ・ソロスという投資家がいますが、「グローバリストの計画がうまくいかないなら世界は火の海になる」そんなことを言っていましたね。ハワイマウイ島、ロサンゼルス、大船渡、確かに大規模な火災ですが、この火災の背景に隠されたものが怖いですね。能登の地震後の火災も何であんなことになったんでしょうね。最初の小さな火災はヘリが飛べば何とかなったと思うのですが、こんなことを言う私が消火に関してど素人すぎるのかもしれません。

 

 時代は「我信ずる」から「我知る」の時代へと移り、いよいよ裏が表に変わる時代、いろんなものが見えてくる時代が始まって、それが誰にでも見え始めた、そんな気がいたします。

 

 情報は受け取るものではなく自分で調べて知るもの、「我知る」の時代、これって大きな変化なんですね。

何のために読書し、何のために学ぶのか

 

 心を高める、波動を高める、宇宙と調和する、茶道で心を整え、しばしば聖地に赴き、波動、周波数をチューニング、調律する。何だか自分で「私は清らかに生きています~」なんて言っている、自画自賛しているみたいですが何のことはない、私はそういう生活が大好きで、とても心地よくて、そういう生活に何のストレスもなく、毎日が本当に幸せなんですね。もちろん何の努力も必要ありません。

 

 そんな心地よい生活をしている私なのですが、もう一つ大好きなことといえば読書なんですね。本との出会いはやはり読書がきっかけになり、読んだ書籍の中で紹介されていた本をさらに読む、読書が読書を連鎖させる、知識が知識を連鎖させる有様というのもとても興味深く面白くて、もともとスケート選手時代は選手として勝つことができる心構えを学びたいという目的で、哲学や自己啓発、宗教関係から、田中角栄、堤義明などの政治家や経営者の哲学に至るまで、学生であり体育会のスポーツ選手だったことを思えばずいぶんたくさんの本を読んでいた方だったと思います。もちろん文系の学生たちの読書量とは比較にならないと思いますが。

 

 そんな私は今でも一日に何時間も読書をしますが、この年齢になってなお学び続けるのはなぜなのか、学ぶことは何のためのものなのか、私の父は58歳で亡くなっていますので、すでに60歳になった私も、今はすこぶる健康的ではあるものの、いつどうなるかわかりませんね。それでも私は今生を終えるその時まで読書をしていたい、学び続けていたい、少しでも魂を磨き高めたいと思っているんですね。

 

 もちろん私は経験上、私たちという存在は素粒子であり、波動、周波数であり、今生のあらゆる経験と感動は宇宙のアカシックレコードに刻まれる、そこには過去生であるご先祖様を含めた私たちの意識や個性も含まれて存在しており、向上心のような感情的、精神的な波動の揺らぎが生じた時、命というもの、さらなる経験と感動を求める意志、すなわち宇宙の意志が調和したときに新しい生命として再生し、より高い向上心を伴った経験と感動の人生を繰り返す。そんなことを思えば宇宙へ帰る際に魂だけというわけですから、できれば少しでもきれいな魂、美しい存在として魂の故郷である宇宙への里帰りをしたいという思いがあるわけなんですね。煩悩の塊のような私でも少しはそんなことを考えながら、いつか帰る日が来る魂の故郷、大宇宙へ思いを馳せ、学んで生きているんですね。

 

 昨年来生活が大きく変化し、とても穏やかになっている今でもそんな思いで生きていれば、学ぶこともとても楽しく、自分自身にとっても魂にとっても、また私の過去生を生きた全てのご先祖様にとっても意義あることだと思うんですね。もっともこういう思いは今生きているこの私にとってはやはり個人的な事であり、ともすればすぐに自己中心的で自分本位な心から発祥したものでしかないのではないかと思うんですね。

 

 しかし、それもまた無理もないことなのだと思います。なぜなら今この生命は大宇宙という大きな一つの存在、この世界でいうところの神の一滴として命ある肉体に閉じ籠り、今生を終えるその時までは与えられた肉体を通して「個」としての意識をもって生きるわけですから、肉体に命がある限りは誰もが個であって、「奇跡の脳」を著されたジル・ボルト・テイラーさんのような境遇、脳卒中という経験で個と全体の境がなくなり、人は誰もが孤独ではないという、全てが一つであるという経験をしない限りは、個として生きることも、しばしば自己中心になる事もやむを得ないこと、そしてそのことは経験と感動を味わえるこの肉体の生命維持には欠かせないのだと思うのですね。

 

 そんな個であり時に自己中心な私でも時に読書をして学ぶという個人的な楽しみが自分のためだけの行いではないとはっきり自信をもっていえる理由があるんですね。それが息子、家族という存在なんですね。妻も息子もその運命については私の影響がとても大きい訳なんですね。偉そうなことを言いたいのではなくて、例えば私が仕事をしっかりと頑張ることで収入はそれなりに安定し、家族を路頭に迷わすこともないわけですし、これまでも人生を共にしてきた数十年の間には様々なターニングポイント、試練もたくさんあったわけです。若い頃は知識も経験も乏しいわけですから判断、考え方、結論、アドバイスなどで随分家族を巻き込んだ失敗もしてきたんですね。そんな時には「もうちょっと自分に見識があれば」と後悔することも多々ありました。

 

 それでも学び続けることで、知識、見識、胆識は少しでも高まっていきますから、家族に何かあった時、重要な判断を要する時、人生において嫁や息子がアドバイスを必要としたときには、知識や経験が乏しい若い頃よりは少しはましなアドバイスができるようになっているんですね。

 

 愛する家族、息子を生んでくれた妻、生まれてきてくれた息子、そんな存在たちに私が学ぶこと、経験し乗り越えてきた試練や感動の一つ一つが役に立つことがあった時にはそれが私にとって大きな喜びになるんですね。

 

 健康も体力も大切、そして知力もまた縁あった愛する家族たちをこれからも守っていくことになると思えば、学ぶこともまた、生きる喜びにつながるというわけです。

 

学ぶこともまた、全ては愛、愛がすべて・・・なーんてね。(笑)

 

感謝!

近所のお地蔵さんと感謝の波動

 

 自宅からJRの最寄り駅へ歩いていく途中に小さなお地蔵さんの祠(ほこら)があるんですね。

 

 家を出てすぐのところにあるのですが、このお地蔵さんがある周辺では毎年地元の地蔵盆があり、近所の子供たちが集まって盆踊りを楽しんでいるんですね。みんなの楽しみは子供会のみなさんが用意してくれたジュースをたくさん飲めるということ、そして帰りにお菓子をたくさんもらえること、私も幼い頃はそれが楽しみで、盆踊りの準備が始まるととてもワクワクしていたものなんです。

 

 高校生になると私は東京へ、カナダへとスケートがとても忙しくなったのでずっと忘れていたのですが、28歳の時に父が亡くなり、日本に帰ってきて家業に入り、結婚し、息子が生まれ、人生が次々と変化していったのですが、息子が物心ついた頃から子供会のこの盆踊りに連れていくようになったんですね。

 

 自分が幼いころにお世話になったお地蔵さんに自分の息子がまたお世話になる、そうなってみて改めて両親の事、当時の子供会のお世話をして下さっていた皆さんの事、とてもありがたいと思い、感謝の気持ちが湧いてきますね。当時のワクワクした気持ちは今でもとてもリアルに記憶の中に残っているので、楽しそうにしている息子を見ながら「ありがたいな~」という気持ちにさせてくれます。そんな息子もすでに大学を卒業し、社会人となり、すでに独立をしているのですが、そんな今でも出かけるときにはそのお地蔵さんの前を通るので必ずお参りして手を合わせるのですが、ここ数年は言霊で想念して感謝を伝えるのではなくて、ただただ感謝の気持ちを波動、周波数で発することにするようになりました。

 

 私も生きていく中で60歳という年齢、仕事の変化、生活の変化を迎えているこの時期、自分の体や魂の感度が変化しているのだと思いますが、言葉、言霊よりも魂が発する波動の方がずっと心からの感謝を表現できるんですね。そんな波動を全身から発する方がずっと素直な心で感謝を伝えることができるのかもしれません。

 

 思えば昨年来、これまでの人生であれ、今の生活、今住んでいる家、様々な出会い、こうして執筆している私の部屋、寝室、今生の人生におけるこうしたささやかな命の頂き物全てが有難いんですね。「ありがたいな~」と思えるんですね。

 

 料理をすること、嫁さんと飲むほうじ茶、玄米茶、ハーブティ、嗜む茶道、どれもがとても良い時間で、言葉ではとても表現できなくて、胸が熱くなる、ただそれだけ。そうであれば言葉など必要なくて、お地蔵さんの前に立ってもただ手を合わせ、今の幸せを思い、有難いと感じることで感謝の言葉や祝詞、経文を唱える事よりもずっと伝わっているのではないかと思います。

 

 手を合わせる場所がある、世代を超えてお世話になれる、感謝を心から感じられる人生がある。

 

 ありがたいですね。

 

感謝!

人は何のために生まれてきたのか、言葉に出す、行動する、躊躇うと後悔、人生の結果にはタイムラグあり

 

 人は何のために生まれてきたのか、この命は何のためにあるのか、自分の使命は何なのか、そしてどう生きるのか。私たちは思えば物心ついたときから自分にこのことを問い続けてきたのではないかと思うんですね。少し世を拗ねているときは親に向かって「生んでくれと頼んでなんかいない」なんて言ってしまう人もいますが、どうもこの命は自分で望んで、自分で親を選んで生まれてきたようなので、この世で生きている間はどれだけ親に文句を言ったところで決して物事は解決しないんですね。

 

 人生、未来に何の心配事もなく毎日が愉快で面白おかしく生きていけるのなら何も悩むことなどなく「人生とは、生きるとは」なんてことを考える人用などないのではないかと思うのですが、貧しけりゃ貧しいで、裕福なら裕福で、命ある人生を生きている限り正負の法則は絶妙に稼働して私たちを右へ左へと揺さぶってきますね。

 

 はたから見れば羨ましい限りの人生を生きていても本人は真顔で「不幸だ~不幸だ~」といじけて文句を言う。逆に少し「気の毒だな」と思うような試練の人生を生きている人がそんなはたから見るところの不幸に見える境遇でも日々を一生懸命に、今生の命に満足して笑顔で当たり前に生きている。そんな人は些細な事でもうれしい、有難い、楽しいって言いますね。

 

 こんなことはよくあることで、「夜と霧」を著したヴィクトール・フランクル氏の言葉では「比較する時代があるかどうか」ということになるのではないかということになるのでしょうし、比較すると言えば、上ばかり見ていると自分が不幸に見え、下を見てみれば「あいつよりはまだマシだな」と気づいて少し反省をして生きていくこと「足るを知る」という気持ちになるのでしょうが、誰にでも言えることはまずは五体満足であること、ごく普通に健康であること、総じて正常な思考ができること、これだけあればもう人間として生きるにあたって不足を感じることなんてないと思うんですね。

 

 落胆と反省、そして人生の出来事に対する感謝、それを繰り返しながら、この命の意味、有難さ、そういうことの理解を高めていくことも魂を磨き高めるという人生の根本テーマに、理解とその深みを増していくことになると思うのですが、いかんせんこの物質社会においては「無ければ無いで欲しい、あったらあったでもっと欲しい」という欲望の連鎖が毎日のようにかま首をもたげてきますから、自分の心、魂を治めるというのはなかなかに、人生で一番手ごわいことなのかもしれません。

 

 わたしは60歳になり、今年の8月には61歳になるんですね。この年齢になって思うことは「若いということのある意味の難しさ」がこの年齢になるとよく見えてくるんですね。若い頃の私は夢と希望に満ち溢れていた訳ですが、それは裏を返せば夢と希望だらけで、収取がつかない状態でもあると思うんですね。そして夢と希望の数が多ければ多いほどに、夢破れる、希望を失い落胆することも山のように積み重ねていく訳なんですね。

 

 志望校に合格できなかった、希望した会社に就職できなかった、やりたい仕事があったが運と才能に恵まれなくて諦めた、スポーツもそうですね、勝てなかった、夢かなわなかった。こんなことで人は悲観してしまうわけですが、人生において数多くの落胆を積み重ねてきた今、ましてもう60歳を超えたわけですから、いわば私の人生は今後の可能性というものがかなり狭まってきているんですね。

 

 こういう状況で私が感じること、体力も多少なりとも落ちてきて、体力が要る仕事や長時間を要する仕事ができなくなってきた今、自分にできることが限られてきていて、なおかつ長期間を要することはその達成まで自分の命が継続するのか、たとえ長生きをしたとしても先ほど挙げた3つの健康要素「五体満足、健康である、正常な思考」が維持できるのか、なんていう若い時には絶対に考えもしなかったことにも不安な思いを巡らすようになるんですね。

 

 しかし、こんな状況はよく言われるところの「我が人生に迷いなし」という時期に差し掛かっていることでもあり、今できること、私にとってはこういった言論活動や執筆活動、食と健康と減量に関するセミナーなど、これまで経験してきたことを集約して洗練させていくことで人のお役に立つこと「自分の人生はこのためにあったのだ、私が生まれてきた理由はこれだったのだ」と確信をもって心から思えるものが結晶化して残ってくるのだと思うんですね。

 

 夢と希望に満ち溢れている若い時代は思えば自分の未来を随分と不安に思っていた時代でもあったんですね。私はとても不器用だったことが幸いして、これまでの人生でやったことといえば「病気、スケート、印刷業」この3つだけだったのですが、どれも運命とタイミング、境遇に誘われて必然を歩んできたことばかりで、それでも勉強もスポーツも自力では全く足りず、他力に頼るしかない人生の中でやってこれた理由を考えてみると「素直であった」ことが大きかったのかもしれません。

 

 人生の時、運び、出来事に身を任せてみる、その中でスケートであれ、印刷業であれ、随分と私にはこだわりがあって、わがままな選手生活であり経営道を歩んできたと思います。要は「こうありたい」と思うことには妥協しないで生きてきたんだと思うんですね。そして自分がどうしてもこうありたい、これがやりたいと思うことはどれだけけなされても反対されてもバカにされても貫いたのですが、その結果はといえばタイムラグ、つまり何年も何十年も経ってから「あれでよかったんだ」「やってよかったんだ」という悔いのない人生が今ごろやってきていますね。

 

こんなお話、誰のお役に立つのかわかりませんが・・・。

 

感謝!

波動、周波数、そして振動数とそのスピードが違い過ぎるトランプ大統領と石破総理

 

 オールドメディアはトランプ大統領と石破総理大臣の首脳会談はそれなりの成功を収めたように報道しましたね。実際には次の会談は恐らくないか、あるいは関税なりのとんでもない要求を吹っ掛ける時だけあってもらえるかもしれないような事態だと私は思っています。

 

 この二人を見た時自分が営業マンとして走り回っていた頃のことを思い出します。取引したい企業、会いたいと思う経営者の方に面談や取引をお願するのはとても大変でしたがいつも行きつく先は波動、周波数、そして自分の思考や行動、仕事の質によって変化していく振動数とそのスピードだったんですね。

 

 波動や周波数と振動数は同じようなものですが、肉体をもってこの世に生き、何かを成し遂げるには単に波動や周波数が宇宙と調和しているだけではだめなんですね。命ある間、今この人生を生きている間に物事を成就したい、そう思っても人生には時間切れになる事が多いんですね。命には制限時間があるんです。生きている間の夢や目標というのは制限時間があって、「命ある間に」というもので、しかもその命はいつ終わるかわからないものなんですね。

 

 トランプ大統領の場合はあと4年限りという明確な任期があり、彼は二度目なのでこれがアメリカの制度では最後の4年間ということになります。そしてMAGA(Make America great again)を公約にして当選し、実際に猛烈なスピードで大統領令を発し、世界の戦地の戦いを終結させるよう働きかけ、歴代大統領ができなかった、それがために命まで奪われてきたDS(ディープステート)との戦いを実行し、DSの金の流れを止め、LGBTというインチキを廃止し、バイデン時代に票のためだけに外国人を流入させ、今の日本のように国を大混乱に導いた悪政を立て直そうとする、挙げればきりがないほど間もなく80歳にもなろうかという高齢でありながら自ら激務にチャレンジしている。

 

 暗殺計画はこれまで何十回とあったが一番恐ろしかったのは昨年7月13日にペンシルバニア州で発生した暗殺未遂事件ですね。奇跡的に耳をかすっただけで済んだが、血まみれの顔で拳を何度も突き上げる姿は彼の意志の強さ、固さ、そして運命のタフさ、神のご加護、宇宙の法則を強く感じました。アメリカ大統領トランプが推進する政策は命がけなんですね。世界中どこへ行っても命の危険にさらされる。トランプ氏は充分なお金持ちであり、豪邸でリッチな暮らしをしながらビジネスに勤しんで構わない人物であるにも拘らず、それがなぜ年俸たったの1ドルで命懸けの仕事をしているのか、こんなことが石破氏にはわかるだろうか、いったい誰が彼を日本の総理大臣であると誇りを持って呼べるのでしょうね。

 

 宗教団体との問題、裏金、大増税、食料問題、外国人問題、USAIDとの関係、災害対策、食の安全性、環境問題、LGBT、SDGs、偽物の福祉、経団連優遇による消費税のさらなる増税計画、日本国、日本人を徹底的に貶め、貧困に陥れる、国民の人心を荒廃させ、自殺を激増させ、様々な嘘で疫病をでっち上げ、若者が未来に希望が持てず、結婚も家庭を持つこともできない日本社会を形成し、悪政による極端な人口減少、それでいて自分たちは私腹を肥やす。

 

 外交においても日本を貶めるだけ貶める、外務大臣はまたも再度、日本が中国や朝鮮半島に悪事を働いたなどということを認めたようだが、日本人は騙されてはいけない。日本人は奴らが主張しているようなことは断じてしていないのだ。言い出したら切りがないほどにトランプ大統領が推進する命懸けの政策とは比較にすらならず、最初から嘘が前提の公約で国民を騙して政治家になった者がやることは、首相でありながら日本国と日本人の幸せ、国益、繁栄には一切寄与しないことだけなんですね。日本の総理大臣とは現在そういう人物、そういう政党、勢力なのだからそんな奴をトランプ大統領がまともに相手にするわけがないんですね。

 

 あの会談の最後は恐ろしく、過去のどの日米首脳会談よりもみっともなく醜悪な事態であったと思うんです。握手どころか、顔も見ず、日本の総理大臣である石破首相をほったらかしにして会見場を後にしたトランプ氏だが、当たり前だと思います。ただ、思えば石橋氏も気の毒だとは思います。彼には無理なんです。トランプ大統領と本気で向き合えるのは、日本国を本気で復活させようという固い意志のあるリーダーにしかできないですからね。

 

 最初に営業マン時代のお話をしましたが、命懸けで猛烈に経営をしている、会社を成功に導こうと頑張っている経営者に、自社の事もろくに考えないチャラチャラした営業マンがうろついてきたところで相手にされないのが当たり前なんですね。命がけで経営をしている経営トップからすればそんな奴と会うのは時間の無駄でしかないですからね。

 

 自分の振動数とそのスピードが同じレベルに上がってこない限り、取引どころか面談さえしてもらえないですね。

 

 もっとも今の時代はデクラスの時代、日本政府の悪事が丸見えになっていますから、私たち日本国民は奴らの道具であるオールドメディアを盲目的に信じるのではなく、ちゃんと自分の目を開いて国民が地に落とされた理由や現在の日本国の仕組みや策略を知ることが、日本復活の第一歩になると思うんですね。

 

 特に大人は若い世代、子どもたちの未来のためにどうしても悪政と戦わねばならない時が来ていますね。

 

 日本国を良くしていきましょう!

 

感謝!

日本人よ!選挙に行こうではないか!

 

 日本人はおおよそ半数があるいはそれ以上の民が選挙に行きません。選挙に行かないので組織票とか有利な立場、つまりワニが実にたやすく当選する、日本はそういう国なんですね。5000万票ほどの票がいびきをかいて眠っている、日本はそういう国です。

 

 西洋の歴史を見ても民主化の戦い、選挙権を得る戦いは血みどろであり、命懸けで得てきた権利だったわけです。そのようなことを思えば、昨年の兵庫県知事選挙で多くの関心を集めたものの、未だ日本人、特に若い世代が政治に関心がなく(これもワニの策略によるものではあるのですが)日本国、そして自分自身の未来の運命を決定するほどの重大なものであり、国民にとっては唯一民主主義を表現し、国のリーダー、いや、国民の代表者であり言葉は悪いかもしれないが公僕を選び、国民のために全力を尽くす覚悟のある、全国民の命運を預ける者たちを選ぶ、選挙とはそれほど大切なものなのだが、国民の半数が選挙に行かないのだ。そのことがどれほど重大な社会的大事故、大災害、大惨事となるのか。2025年になってやっとそろそろ、いびきをかいて眠っていた日本人もさすがに気づき始めたのではないか、

 

 私だけでなくかなり多くの人が日本国の危機的状況を考え始めたのではないかと思うんですね。誤ったものでは困るが、今日本国に渦巻くイデオロギーは悪いことではないと思っている。いわゆる「財務省解体デモ」である。この運動は日本全国で10万人、100万人、いや1000万人規模で行われるべきだと私は思っている。

 

 映像を見れば財務省で、大阪では財務局で、女子職員の姿が窓辺に見えていたがデモを窓から眺めてせせら笑っているのである。職員は職員で就職した場所で職務を全うしていると言えばそれまでだが、国民、特に未来ある若者はこの連中の職務全うによって自分たちの未来が左右されている。今のままでは大半の日本の若者の未来がもっともっと悲惨極まりないものになるということをはっきりと自覚し、声を上げて行動しなくては「羊たちの沈黙」のごとく、自分の未来をまるで傍観者のように眺めるばかりで悪質な日本人モドキの餌になってしまうだけだと私は強く警告したい。それほど今の日本人はまだまだ自分が一体何をされているのかにさえ気が付いていないのだ。

 

 そして大きなイデオロギーの中で最も大切なのが「選挙権のある日本人全員が選挙に参加し、投票すること」なのだ。最終的に行動が実稼働し、世の中、つまり「若者の未来を変えることができるのは選挙だけ」なのだ。

 

 今のアメリカを見てみよう。アメリカのリーダーが日本の全てのメディアが大嫌いな大統領に交代したことでものすごいスピードで過去4年間の発狂した時代が改善されている。ものすごいスピードだ。変化などと言うものではない。国民のために、自国のために命懸けで行動するリーダーが上に立てば日本国はあっという間に変わるのだ。そして今の日本国にはそういうリーダーがすでに表れているのだ。

 

 良きリーダーを選ぶチャンスは選挙だけなのだ!なぜ選挙に行かないのだ!なぜ自分の大切な一票を選挙に行かぬという選択でドブに捨てるようなことをするのだ?2025年は夢と希望と変化の年であると同時にとても危険な年でもあるのだ。国民の意識次第で、有権者の意識次第で、地球上で最も大切な国、日本という国が消滅しかねない、今はその瀬戸際なのだ!

 

 こんな大事な年に行われる参議院選挙でもし相変わらず投票率が50%前後であれば、それは日本人自ら運命を選びとる、引き当てるということなのだ。いつの時代もそうだが、自国の運命は常に国民の手の中にある。知らなかった、気づかなかった、教えてもらえなかった、そんな言い訳はもうたくさんだ。真実は自分で調べ、自分で知るものなのだ。玉石混交であっても全ての真実はSNSのそこら中に転がっているのだ。しかもタダでだ。誰でも大概にスマホを持っている時代だ。それだけで真実は手に入るのだ。

 

若者よ!日本国民よ!なぜ君たちの生活は苦しいのだ?

 

 それは君たちの半数が選挙をほったらかしにしたからだ。そして間違ったリーダーを選び続けてきたからだ。

 

 日本人は世界一高潔な民族でありながら世界一情報リテラシーに乏しい愚民に成り下がっているのだ。想像してみるといい、日本国が外国人に蹂躙され、日本人が奴隷にされ、どの国の国民よりも勤勉に働けど働けど豊かになる事もなく、夢も希望もなく、外国人によって国土を汚され、文化を破壊され、神の国日本国、日本人という民族が消え去る姿を、それがどれだけ不幸で恐ろしいことであるかを!

 

 それでも君たちはどうでもいい言い訳をし、自分の一票をレジャーや怠惰な無力感、どうせ選挙なんて無駄、どうせ変わらない、などと言う退廃的な感情と引き換えにするのか?本来日本の未来は夢と希望、幸せに満ち溢れているはずだ。そんな未来を選ぶ気がないのか?そんな未来に思いを馳せることもなく、日本人はただ人生の時間を浪費し、最初から未来を捨て去って生きていくのか?

 

 戦後のGHQの占領政策だ?洗脳だ?もうそんなことはどうでもいい。今すぐ思考を切り替えよう!今何者がこの国を操り、金のために日本国、日本人を裏切り、とことん貶めている奴は誰なのか、リテラシーを高めて見極めよう!自分の未来が大切だと思うなら、愛する者たち、愛する日本国が大切だと思うなら、2025年こそはリーダー役を日本人全員が自ら選挙で選ぼう。リーダー選びを失敗してはならない。もう丸見えなはずである。嘘をついてきた者たち、売国をしてきた者たち、国民が一生懸命に働いた金を散々に税金という名前の泥棒行為でむしり取り、そしてこっそり莫大な金額をくすねてきた者たち、外国人を大量に日本に入れる見返りに、日本国を貶めることを見返りに外国から金をもらっていた者たち。少なくとも現政権、それに準ずる政党、国民の味方のふりをして益々売国し、外国人を優遇し、日本人を最底辺に据え置こうとする者たち、こんなに悪辣な政権は見たことがない。それが今は丸見えになっているのだ。もちろんテレビではない、SNS上でだ。だから悪辣な奴らはSNSを言論弾圧しようと画策しているのだ。そうしないと悪事がバレるからだ。

 

全国民で悪事をはっきりと見抜こう。

 

何度も言うが今年から全国民が選挙に行こうではないか!

 

 そして売国奴、DS、外国人の手先となって悪事を働いていた奴らを日本国から追い出そう。

 

 日本人よ、心を高め、魂を磨き、波動を高め、美しい国、日本国を愛し、今生のこの命を楽しもう!

正負の法則が必ず稼働する宇宙と地球社会

 

 2025年は面白い年になりそうですね。ものすごいスピードで物事が変化しています。宇宙に働いている法則の中で「正負の法則」これは美輪明宏さんもよく話されていましたね。良いことが100なら必ず悪いことも100起こる。悪いことが100なら必ず良いことも100起こる。差し引きゼロということです。結局宇宙においては損も得もない。ただ、大きな悪の末路は大きな負が帳尻を合わせてきます。これが辛いですね。生半可なエネルギーではないですからね。

 

   栄華を誇り、多くの人民を苦しめ、多くの不幸を社会に生み出した者のそれら行為の清算は想像を絶する苦しみになる、それを知らずに彼らは生きているんですね。正にも負にも些細なものから大きなエネルギーを動かす大善、大悪がありますね。いずれもそれ相応の報いがあります。この世は全て宇宙と共鳴するエネルギーなので大善、大悪のエネルギーも誤魔化しが効きませんね。

 

 トランプアメリカ大統領の就任は大悪にとっては相当にまずいものだったのかもしれません。この世の中には水面より下で何かをしている「ワニ」がいるようですね。ワニは見えないところでしか動かないですね。人に見られては困ることしかしていませんから、見られたら、バレたら困るわけですね。地球社会はそもそも幸せな星であって、何も苦しむこと、悲しむことなどないところだったはずなのですが、なんでこんなに苦しいんでしょうね。生きることが苦しい、社会システムが苦しい、働くのが苦しい、人間関係が苦しい、何でこんなことになったんでしょうね、誰がこんな地球にしたのか、誰がこんな国に、社会にしたのか。もう疑っていいのではないですか?

 

 ワニは色々アイデア豊富ですね。民を苦しめる方法を、実にいろいろなことを思いつきますね。苦しめる社会、苦しめる国家、苦しめる人間関係、何でこんなものばかり作るんでしょうね。ワニはそうやって自分たちだけ豪勢な暮らしをして幸せなのですかね。いったい何の意味があってそんな人生を彼らは選んだのでしょうね。人生は選択の連続といいますが、ワニは何を選んだのですかね。USAIDの金の流れで実態がいよいよバレ始めた。ハンガリー出身の有名なワニは以前こういっていましたね。「自分は投資家であって投資に対する利益にしか興味がない。その結果社会がどうなろうと、私はそれには興味がない。」ハンガリー出身のワニがやっていることはそんな事ばかりですね。人間ではないということです。

 

 悪いことしか思いつかず、悪いことしかしない。こんなことは日本人であっても、地球の様々な国家としてもよくあることです。日本に入ってきている、というよりは日本にもいるワニが次々と入国させている、そして日本人を貶めることをしている難民としての、留学生としての、移民としての、ビジネスマンとしてのワニたちもなぜ悪いことしかしないんですかねえ。悪いこと、日本国、日本人が困ること、それしかしない、それしか考えない、悪いことしかできないんですね。

 

 どうもおかしい、魂が体内に入り、この世に生きる、生まれた場所は千差万別、そこで何かの境遇、何かの思想、何かの環境の中でワニとしての人格が形成されてそういう生き方になるんですね。だれも幸せにはならない思考、生き方、行動をする、自分がいくらいい思いをしてもその土台が多くの民の不幸であれば何の意味もないと思うのですが、そんなことが平気なワニの事を「サイコパス」と表現していますね。

 

 サイコパス、精神異常ですね。そんなことをしたら人がどうなるのか、他人の事なんて一切考えないのがサイコパスの特徴ですが、それよりもいずれ自分がどうなるのか、そんな事には何の考えも及ばないのがサイコパスのワニなんですね。

 

 良きことを思い、良きことを行えば、良き結果が生まれる、ワニは何が良きことなのか、何が悪しきことなのか、理解もできなければ、そんなことを考えるということさえしないんですね。ハンガリーのワニと同じですね。彼がこれからどうなるのか、私たちはひょっとしたらその歴史的な結果を目撃するのかもしれませんね。

 

 散々悔しい思いをした、苦しい思いをした、生きる望みを絶たれた、私たちの魂に刻まれた過去生の人々の思いがそれを待っているのかもしれませんね。日本のテレビで観るワニたちもそろそろ自分の運命に気付いているのかもしれませんね。日本国、今は本当に悔しいですね。でも悔しいという思いは気づきから来るんですね。「I know」の時代、我知る、気づくからこそ本当に悔しいんですね。もう気づいているんですね。

 

 顔、テレビで観る顔、ワニの顔、いかがわしい、嘘をつく品のない、とにかくいかがわしい顔、毎日見るワニの顔。日本のワニの顔なんですね。恥を知らず、「人殺し」といわれても権力に居座り続けるいかがわしい顔、宇宙は許しません。宇宙の法則は良からぬワニを歪め、狂わせ、滅ぼす、当たり前です。ワニの思考、ワニの行い、ワニでない民、善良な民にとってはこんなに苦しいことはない。しかし私たちがこの苦しみの時代に観るものは、栄華を誇ったワニの終焉、断末魔の姿なんですね。それは私たちだけが見ているのではない、善なる私たちの魂に刻まれた過去生の全ての魂が今固唾をのんで見ているんです。

 

 2025年私たちは劇場にいます。素晴らしい「不思議な旅」という演劇のクライマックス。待ち遠しいものですね。

感謝!

たまには、死について考える

 

 死について、人間は命に限りがある存在ですから、人生において死はとても身近なものなんですね。生きている限り身近であれ見知らぬ他人であれ、自分の人生の周囲は死に満ち溢れているんですね。そして死は誰にとっても不安なものでありとても怖いものなんですね。

 

 死を恐れる原因は、それがいつなのかわからないということ、そして死後自分がどうなるのか、いくら年齢を重ねて生きてもなかなかはっきりと「死後の世界」についての明確な情報が無いということ、つまり死んだらどうなるのか「よくわからない」からなんですね。わからないものですからそりゃ不安にもなるというものです。更には、痛い目にあうのか、苦しむのか、恐怖を味わうのか、そんなことを考えていると気の弱い私など怖くておちおちと眠ることもできなくなるんですね。とはいうものの、人間は全員いつか必ず死ぬわけですし、多少どこかの誰かよりも長生きをしたところで宇宙の時間、積み上げられてきた地球の歴史の時間を思えば大差ない訳なんですね。

 

 全員必ずいつか絶対に死ぬ、わかってはいても死んだ後どうなるかがわからない限り、死の恐怖や不安から逃れるのはとても難しいですね。生きている以上死を迎えるまでは色々な目にあいながらも生きるしかないわけで、命をつないで人間らしく生きるだけでも大変なのに、死についても覚悟しなくてはならない、生きるってことはとても大変で本当にややっこしいもんですねえ。

 

 死ぬなら死ぬでその死に方も千差万別ですが、私たちにはいったいどんな死に方が可能性としてあるんでしょうね。老衰による自然死、一般的で一番多いのが病死、嫌だけれど事故死、一番いやな一つである殺される死、あるいは自分で・・・。大まかにはこんな感じですかね。どれか選べるとしてもこれでオッケーって言えるものはないみたいですね。

 

 誰でも思うのは死に際して苦痛や苦しさ、恐怖など、あまりに絶望的な状況を被るのは避けたいものですが、そう思っても思い通りにはいきませんね、何だかやなもんですね。できれば死のことなど考えたくない、知らんぷりして生きていた方が楽なのかもしれませんが、死はずっと先の場合もあれば、今この瞬間に突然来るかもしれないものでもありますね。いずれにしてもある程度予想(全く妄想にしかなりませんが)はつくものの、それでも年月日時分秒まで知ることは絶対にできませんからどんなに頑張ってみても人生において死の不安や恐怖を消し去ることはできないんですね。

 

 こんなことばかり言っていたら人生はもう不安で不安でたまらない。人間は基本的には未来がある、少なくとも明日は来るものだと思って生きていますから、何か良いことでも悪いことでも先の事を考えて何かを未来のために企てる事で生きる理由のようなもの、そして「行動」なんてことをするんですね。そして時折、テレビで観る人であれ身近な存在であれ、知っている存在の死を見た時、命の儚さ、そして自分にもいつか必ず訪れる自分自身の死というその時に思いを馳せ、今のこの命に感謝すると同時に自分の命にも不安を覚えるのではないかと思うんですね。

 

 ある意味人生には生と死を見つめ続け、命の終わりという必ず自分に順番が巡ってくる、「おはち」がとうとう自分に回ってくる、人生にはそんな一面があるのではないかと思うんですね。私のような凡人ではいくら考えても解決のつかない死について、シャーマンである神人さんという方が動画でこんなお話をされていたことがあります。「死というのは宿命で、いつごろ死ぬかは生まれる前からだいたい決まっているもの。ただ死に方だけは決まっておらず、人生で何を選んで生きてきたか、因果関係によってその時は前後に1年くらいのブレはある。いずれにしても人はそうしてだいたい決まった時期に人生を終える、どんな最後であれ誰でもそれが寿命だと考えるといい。」私の記憶なので不正確かもしれませんがこんなようなご説明であったかと思います。

 

 私の場合はこのお話をお聞きして少しほっとしたんですね。「いつかはわからないが死の時はだいたい決まっている。」私が思うにいつかはわからないが死は必ず訪れ、それもだいたい決まっている。そうであれば不安も恐怖も無駄だと思うんですね。突然だろうが何だろうが死んだ時が寿命、そうであればどう生きたらいいのか。結局「中今」「今、ここ、自己」に生きるのが一番いいんじゃないかな、なんて私のような極楽トンボは思うわけです。いつ死ぬのかなんてどうせわからない、しかし死は絶対にやってくる。その事実だけが生きている間に誰でも理解できることであって、誰でも知っていることであって、「ならば!」と心に決心できることは何なのかな?って考えた時「どう生きるか」くらいはなるべく早めに決心しておきたいと思うんですね。

 

 人生において最高の経験は何だったのか、私にとっては「愛したこと、愛されたこと、感謝したこと、感謝されたこと」結局たったこれだけだったんです。他で代用はできない事実なんですね。この事はいつも心掛けている「宇宙との調和」「愛と感謝」は宇宙の法則であり全てだ、そう思って生きていれば、この世での出来事、この世で得たもの、地位、名誉、財産、そんなものは何も意味をなさなくなります。あの世に持っていけるものは魂だけですからね、全部捨てていかないといけない。

 

 ただ愛と感謝に生きる。私の場合はそれだけでこの世への執着も未練も消えてなくなってしまいます。人生の出来事は全てが経験と感動、それが私たちが神と呼ぶ大きな一つの宇宙の喜び、そう信じたなら全ての、これまでの生きてきた人生に無駄はなく意味があったのだと思えるようになるんですね。

 

 死について考える。死について語ることはなぜだかタブーのように思われやすいですが、こうして面と向かって、そんなに深刻にならず、恐れることなく、悲しむこともなく、そもそも死とは元居たところ、魂の故郷に帰る事なんだ、などと色々こうして面と向かって死について考える、死への思いを言霊にするすると、なぜかどれだけ大切な事だったかと気づかされるんですね。そうすることで今の命を慈しみ、人生をもっともっと充実したものにできるのではないか、愛と感謝に生きることができるのではないか、大切なことを忘れない様に生きられるのではないかと思うんです。

 

 昨年来、航空機の事故が多いですね。アメリカのワシントンDCで旅客機と米軍のブラックホークというヘリが空中で衝突する事故が発生し、乗客の中に数多くのフィギュアスケート選手やコーチ、関係者が巻き込まれました。その中でロシア出身のご夫妻で、コーチでありプロスケーターだった方が含まれていましたが、その人たちは私と同じ年代に活躍された方で、私自身30年以上前、現役のフィギュアスケート選手だった頃には何度も同じ競技会を経験し、彼らの素晴らしい演技をまじかで見ていました。「あの二人が・・・。」という思いはありますが、それでもそれもまた寿命、それまでを全力で懸命に生きてきた人たちだったと思うことができれば、死を悼みながらも「これまでの人生、本当にお疲れさまでした」と労ってあげたい気持ちになります。

 

 死の時は必ず訪れる、そしてそれはいつかわからない、ならば命ある私たちにできることは誰もが人生を満喫し、幸せに、愛と感謝に、今、ここ、自己に生きることなんじゃないかと思うんですね。そうすればどんな人生だって「なかなか良き人生だった」と私には思えてくるかもしれませんね。私はそう願っています。

 

私たちが生きるのは「今、ここ、自己」人生を楽しみましょう。

 

 感謝!