多分、今のこの状態だと色んなものに対して、色んなことを言いたい状態なので、
このまま文に落とし込んだところで、なんら脈絡がなくなったりしそう。

書くことは、今日は止めとこうと思います。


すっごい落ち込んだのさ。これ見て。。。
巧みすぎるトークが、下手な番組よか見入らせるんだよな。。。。術中か!!?







小さい頃は、広告といえば「チラシ」のイメージがありました。
小さい頃からヒマさえあれば画を描いていた人間なので、
片面印刷のチラシをよく探していた記憶があります。

それがいつしかCMになって、戦略になって、webになって。
いろんな変遷をたどって、僕個人の広告という認識が現在に至っているんですが、
どうなんですかね?広告を制作という側面からなんら関わらない人間も、
その昔に比べれば「広告を広告して扱う」認識は備わっていると考えるべきなんですかね?

というように思ったのも、渋谷駅の某建築企業の
ブース型広告スペースの設置例を目にしたときなんですが、
渋谷駅のホーム、広告塔としても大きなタレントを使うブランドにして、
ブース内誰一人人間が入ってないんですよね。

人の行き交いはもちろん保証される立地の中、
表現にもなるだけ間口を広く設けようとする工夫が感じられるものの、
何か多分訴求には至っていない。
着地点を崩しすぎている印象もないものの、
なにか人に繋がらないそれは、どこかに原因がある。
それが「人の広告に対する認識」かなと思ったんです。


1クリック詐欺だとか、虚偽請求なんて、
広告に便乗した犯罪も多い中で、疑心暗鬼になるところもあるんでしょうか。
オトク情報も全部含めて、「広告の扱い方」というのが現代人には備わっているような
気がするんですよね。

良くも悪くも、乗せられることが少ない現代、
それ即ち、動きが少ないということなんですが、
本当にそういった「吟味に適う広告」でないと
人は受け入れなくなってきている。
そういう風に思うんです。

だからこそ、そういった中にコミュニケーションを生む職業というのは、
実は今までに確立してこなかった職種として必要になる気がしてるんですよね。
(※ストラテジックプランナーの発展系というのかな。。。)

だからなんだろうなぁ。。。
ストレートというか、シンプルというか、
人に受け入れられるべく、人っぽい広告が活きてくる。
どれだけの個を表現していけるかが、切り離せない課題になるんでしょうねー。
リア・ディゾンの干され具合って半端ないっすよね。。。
あらゆる行動には必ず目的が必要になる。
その目的が利益や数字で無い場合には、尚更、目的は明確にされなくてはいけない。

何故なのかを考える。
今の環境には、それがことごとく抜けている。


病気になったとして、その原因究明を疎かにする医者がいるんだろうか?
風邪に対して、絆創膏を処方するような行動が、はたして「治療」と扱われるのだろうか?

都度、どれだけ進言しても聞く耳すら持たなかったそれに対して、
判断すら許されないそれに対して、今更責任を負う気はまるで無い。
むしろ、いわれが無い。


自分が必ずしも正しいとは言わない。
けれど、絆創膏を処方するようなアタマを糾弾するくらいの現実的な立ち位置は、
保持していくつもりです。

目的はもちろん、そんな風邪を治すため。
各部位の自己治癒の意識を取り戻させるため。