だったかな?

$BANANA BOAT
人に喜んでもらうことを考えないクリエイティブなんて、
意味ないよな。

裏を返せば、
落としどころを想定したクリエイティブに、
迷いなんてあるわけがないんだよな。

人は何かになろうとする時、領域を作る修正があるようで、
雨や風をよけるための柵や、天井を設けたりもする訳なんですが、
結局それが故に「己の殻を破れなくなるジレンマ」を抱えることもしばしば。

あらかじめ開閉式の屋根を設けたり、
それこそ柵を作ろうものの天井は設けなかったりね。
認識しながら領域を形作る人間は、
中の己の成長にあわせた事前の工夫をいろいろと講じたりも出来るんですが、
こればっかりは己の可能性を信じる、成長を確信する条件が必要なようです。

天井を設ける道理が成り立たないってそういうことでしかないんじゃないですかね?


バカポジの部類に類するこの物言いではあるんですが、
高括った天井設けて過ごす人生に比べれば、かなり有意義に映るんですよね。

ま、そういう性分です。
出来ることと、触れることを一緒くたにしてはいけない。

至極当然な話ですが、人は「出来る」と聞く以上「出来る」と見なしてきます。
「出来ること」を「触れる程度」とするならば、謙遜ですむわけだけど、
逆の場合はそうはいかないんですよね。

「出来る」と言う以上は、「出来なければいけない」し、
「触れる」程度を「出来る」と言ってしまえば、
それは社会的には一種の詐欺行為ととられておかしくはない。

そんな琴線の上、「出来ること」をどうアウトプットしていくかが、
社会に求められる当然のクオリティで、
「触れる」程度を社会に求められるものと思い込んでるようじゃ、
前提にも立てていないんですよね。
社会に触れてこなかった証とも言えそうです。


素人だましを続ける先によほど魅力的なものが待ち受けているようならば進めばいいけれど、
社会にとって最低限失礼でないことは、保たなければいけない姿勢だと思うんです。
組織が許そうが、それは社会が許さない。

そんな社会あっての組織であり、自分である以上は、
社会に見合うべく、何をするべきかをこれでもかというくらいに考えるべき。
どんどん謙遜はするべきだし、挑戦はどんどん拾うべき。

邁進し、笑われる先に結果がついてくることを信じられれば、
多分、その瞬間、「出来ること」が備わってると思うんですよねー。

例えば某国の国民が貧困に喘ぎ、文化的にも遅れているそれは、
その国が外来のものを拒み、その棟梁となる人間の立場、権威を保障するものに限り、
受容するとする姿勢をとっているから。
正に国家運営が私利私欲のためにしか判断されないがために起こりうる国民への弊害は、
ではどうすれば内部から阻止出来るものなのか。

様々なルートをたどり、ごく一部の人間にしか知ることの出来ない外来の情報を糧に、
いつかくるであろう反旗のチャンスを待つ?

その環境下、せめてもの優遇を手にするため、
虐げられる人々を尻目に、棟梁の側近を目指す?

そのどちらでもなく、
とりあえずは諦めるその理由を自己正当化しておく?


とまぁ、とんだたとえ話を引き合いに出してはいるんですが、
ここまで書けば、何をいわんやは分かる人には分かると思います。

組織というのは、そこに属する人間の意識次第で、
次にとれる行動は変わるんですよね。

どうすればいいか。どう変えていけるか。
人よりも何よりも、自分を信じないままにものが変わるのを待つなんて、
組織においては他力本願それ以下だと思うんです。

政治に置ける一票の重さの認識が真っ当な人間ならば、
普通の判断で、尚かつ普通に行動出来るはずなんです。

変化を求めるならば、変化してしまった方がいい。
うるさいくらいに表現していった方がいい。

この短い人生をどれだけ効率的に生きられるかは、
その行動力にあると思うんですよね。