いろいろと思うところはあるんですね。
やっぱり都会のそれは予算があるなぁとか、この撮り方はどういうセットをくんだんだろうとか。
んでも、やっぱり一番感心というか、関心させられるのは、
制作チームは「どうイメージを共有し、納得を得ているのか」ってことなんですよね。
かなり大きなクライアントのCMにしても、まるで論点がない映像(※暗意があったとしても伝
わらない以上は広告として論外)、金を無駄に投じているとしか思えないキャスティング、撮影。
予算の無い地方のCMを、提案し、制作する業務にある立場にいる以上、ただのCMなんて見方を
することはひとつもなくて、そんなところばかりを身に置き換えては比較ばかりをしてるんですね。
そのCMがいいだの悪いだのは置いておいて、
質よりも何よりも、まだまだ手前の部分で足りていないなと感じるのが、「共有」という部分。
CMばかりではないけれど、社会における制作ってまず1人じゃないんです。
いろんな技術をもった人間を集めて、集合体でモノを生む。
学園祭なんかの準備にもにたところはあるんだろうけれど、
お金が投じられてる以上は、ものすごくシビア。映画なんかは最たるものなのかもしれない。
そんな中で、そのモノの善し悪しを決めるあらゆる要素。
映像ならば、音、カメラワーク、タイミング、色使い、言葉、人、
細かく言えばキリがないくらいに、ひとつ飛び抜けてしまったり、
ひとつ解れたところで台無しになるような。
そんな繊細なクリエイティブの上にコンセプトがドカンと載る。
大概の社会に置ける制作にはこういった条件がついてくるんです。
それ故に必要なのが、チームにおける「共有」だと思うんです。
もちろん、経験あって「言わずもがな」で最上のソリューションを示すのがプロの条件では
あるんだけれど、それだけのプロが全員勢揃いすることなんてほとんどない。
ましてや地方~なんて言い訳がましいことは言わないんですが、
それでも最終的な目的地を「共有」していくことは船をこぎだす上では必要なんですよね。
大体の方向を見てこぎだして、更に先の目的地を見つけられるというのは理想の船出なんですが、
ほうきしか握ったことの無い人間がオールを持っていてはどうにも辿り着かない。
予算という名の食料源に問題を当てつけては、目的地にたどり着かないことを理由付けしていた
ら、見込みなんてないんですよね。
そんな時に限って、同じ条件で目的地に辿り着いてるチームがあったりね。
だから、最低でも「共有」することは条件としてあると思うんです。
CD、AD、D、PL、Pと、ひとつのモノに対して様々な見方、様々なポジションで扱うそれが、
集まれば必ず一致するなんてことはまずあり得ないと思うんです。
いろんな結果が電波で発信される中で、その「共有」する方法がはたして絵コンテ1枚だったり
するのかが、いつも気になるところなんですよね。
段階ごとに何が優先され、どのポジションが決定権をもつのかが煩雑なままモノ作りをしなくて
はいけない状況、そんなきらいが現在にはあるので、最低でもそのレベルを脱するための施策を
考えないことには進む先すらも定まらない。
なんだか書いてて来年の豊富みたくなっちゃったけれど、これが一つ目の「共有」。
二つ目がクライアントに対しての「納得」。
映像化するまでもない、金を投じるまでもないCMが結構あると思うんだけど、
それもこれも、制作と流すための予算は間違いなくクライアント企業からきているわけです。
すなわち、「出資」に見合う「対価」を映像に見出してるわけなんですが、これにも段階がある。
お金をかけて、すべて編集を終えてから「こんな映像流すんで、制作と電波のお金ください」
なんて提案はまずないんです。
間違いなく、通常の企業と一緒、提案と見積があって、合意の上で制作にかかるのは現在は当た
り前の話なんですが、つまり、提案の段階で「納得」を得られないことには何もはじまらないん
ですよね。
でも、「しょうもないCMが流れている=提案に納得をもらっている。」ということなんです。
結構予算をかけてしょうもない映像になってることもあるけれど、
相応の予算は大概にして1人の了承で動いていると思えないんですよね。
相応の人の「納得」が必要で、相応の提案が必要。
関わる人全員がしょうもなければそれで終わりなんですが、
額面として考えても、しょうもない人間が集まっている可能性こそが少ないと思うんですよね。
そもそもの抑えの部分、ここをたたかないことにはなにも始まらない「納得」をおこす力、
僕はそれを「実現力」と呼んでいるんですが、妙な脚光を浴びるクリエイティブ以上に
「実現力」を携えることの方が、世の中としても大切なんでしょうね。
結果、面白いものも間違いなく「実現力」はもっているし、
面白くなくとも「実現力」があれば、カタチにはなる。
クリエイティブに関わる以上、多分、これも最低限携えなくてはいけない条件なんだろうな。
と、もうかれこれ5年ほど前から考えていることを連々と文章におこしてみましたが、
ホント、進歩が無いなぁと猛省。
来年こそはもう少し大きく一歩を踏み出せるよう、精進していきます。
やっぱり都会のそれは予算があるなぁとか、この撮り方はどういうセットをくんだんだろうとか。
んでも、やっぱり一番感心というか、関心させられるのは、
制作チームは「どうイメージを共有し、納得を得ているのか」ってことなんですよね。
かなり大きなクライアントのCMにしても、まるで論点がない映像(※暗意があったとしても伝
わらない以上は広告として論外)、金を無駄に投じているとしか思えないキャスティング、撮影。
予算の無い地方のCMを、提案し、制作する業務にある立場にいる以上、ただのCMなんて見方を
することはひとつもなくて、そんなところばかりを身に置き換えては比較ばかりをしてるんですね。
そのCMがいいだの悪いだのは置いておいて、
質よりも何よりも、まだまだ手前の部分で足りていないなと感じるのが、「共有」という部分。
CMばかりではないけれど、社会における制作ってまず1人じゃないんです。
いろんな技術をもった人間を集めて、集合体でモノを生む。
学園祭なんかの準備にもにたところはあるんだろうけれど、
お金が投じられてる以上は、ものすごくシビア。映画なんかは最たるものなのかもしれない。
そんな中で、そのモノの善し悪しを決めるあらゆる要素。
映像ならば、音、カメラワーク、タイミング、色使い、言葉、人、
細かく言えばキリがないくらいに、ひとつ飛び抜けてしまったり、
ひとつ解れたところで台無しになるような。
そんな繊細なクリエイティブの上にコンセプトがドカンと載る。
大概の社会に置ける制作にはこういった条件がついてくるんです。
それ故に必要なのが、チームにおける「共有」だと思うんです。
もちろん、経験あって「言わずもがな」で最上のソリューションを示すのがプロの条件では
あるんだけれど、それだけのプロが全員勢揃いすることなんてほとんどない。
ましてや地方~なんて言い訳がましいことは言わないんですが、
それでも最終的な目的地を「共有」していくことは船をこぎだす上では必要なんですよね。
大体の方向を見てこぎだして、更に先の目的地を見つけられるというのは理想の船出なんですが、
ほうきしか握ったことの無い人間がオールを持っていてはどうにも辿り着かない。
予算という名の食料源に問題を当てつけては、目的地にたどり着かないことを理由付けしていた
ら、見込みなんてないんですよね。
そんな時に限って、同じ条件で目的地に辿り着いてるチームがあったりね。
だから、最低でも「共有」することは条件としてあると思うんです。
CD、AD、D、PL、Pと、ひとつのモノに対して様々な見方、様々なポジションで扱うそれが、
集まれば必ず一致するなんてことはまずあり得ないと思うんです。
いろんな結果が電波で発信される中で、その「共有」する方法がはたして絵コンテ1枚だったり
するのかが、いつも気になるところなんですよね。
段階ごとに何が優先され、どのポジションが決定権をもつのかが煩雑なままモノ作りをしなくて
はいけない状況、そんなきらいが現在にはあるので、最低でもそのレベルを脱するための施策を
考えないことには進む先すらも定まらない。
なんだか書いてて来年の豊富みたくなっちゃったけれど、これが一つ目の「共有」。
二つ目がクライアントに対しての「納得」。
映像化するまでもない、金を投じるまでもないCMが結構あると思うんだけど、
それもこれも、制作と流すための予算は間違いなくクライアント企業からきているわけです。
すなわち、「出資」に見合う「対価」を映像に見出してるわけなんですが、これにも段階がある。
お金をかけて、すべて編集を終えてから「こんな映像流すんで、制作と電波のお金ください」
なんて提案はまずないんです。
間違いなく、通常の企業と一緒、提案と見積があって、合意の上で制作にかかるのは現在は当た
り前の話なんですが、つまり、提案の段階で「納得」を得られないことには何もはじまらないん
ですよね。
でも、「しょうもないCMが流れている=提案に納得をもらっている。」ということなんです。
結構予算をかけてしょうもない映像になってることもあるけれど、
相応の予算は大概にして1人の了承で動いていると思えないんですよね。
相応の人の「納得」が必要で、相応の提案が必要。
関わる人全員がしょうもなければそれで終わりなんですが、
額面として考えても、しょうもない人間が集まっている可能性こそが少ないと思うんですよね。
そもそもの抑えの部分、ここをたたかないことにはなにも始まらない「納得」をおこす力、
僕はそれを「実現力」と呼んでいるんですが、妙な脚光を浴びるクリエイティブ以上に
「実現力」を携えることの方が、世の中としても大切なんでしょうね。
結果、面白いものも間違いなく「実現力」はもっているし、
面白くなくとも「実現力」があれば、カタチにはなる。
クリエイティブに関わる以上、多分、これも最低限携えなくてはいけない条件なんだろうな。
と、もうかれこれ5年ほど前から考えていることを連々と文章におこしてみましたが、
ホント、進歩が無いなぁと猛省。
来年こそはもう少し大きく一歩を踏み出せるよう、精進していきます。