いいものはいい。
だけど、人がいいとするからといって、それがいいという式は成り立ってはいけないと思うんです。

イチ感性をさらす場において、人が認めるそれを選んでおけば、はじかれる心配もないし、疑われる必要もない。空気だの、体裁だの、それの何が「いい」のかも分からない以前に、それを「いい」としてしまう事はこの徒党社会日本。生きる上でも非常にラクなんだろうね。
でも、そう「いい」と言ってしまえる機会ってもっと少なくていいと思うんですね。

だって、数多ある、だけど限られたものの中から「いい」もの選ぶ前提、「いい」と言えてしまえるそれにおいて、個人の持ち得る感性の全行程をスルーさせての判断なわけで、相応に大切にしたいじゃない?

現在に出回るそれに限定しても構わないけど、「いい」とするそれが多ければ多いだけ、結局のところ本質的な部分を感じ取る、人としての感性の部分が問われる様に思うんだね。

発信する側に立たないとまるで見えない視点。現在にはもしかしたら面倒ともされているであろう、一見汲み取る必要のないそれを汲み取ることこそ、本能的にも抽出されるべき判断要因だと思うのだけどなぁ。。。。

難しく考えすぎ?でも、「感じる」ってそうそう簡単ではないんですよ、ホントに。