世界は果てしなく広く・・・などというのは当に昔の話。基本見解が拡大、共通項を見出し続けて久しいが、実際の一般レベルのことを考えていくと、この島国の特性からか、日本がまだ相当に立ち遅れている現状を肌で感じる。
たとえば中国生産=安いからなどという端的な物言いが答えとなってしまっている様に、時代が進み続けているという現状をまったく把握していないように感じる。現在はそれだけが第一要因ではないことは経済アナリストならば語らせると止まらないくらいの議題。案外「安い」とは何が安いのかを履き違えている人間もいるのでは?
永久不変の答えなど存在し得ないことに目を瞑り、「問いに対する1コの答え」を求め続ける故、概念化がすさまじく深く根付いている日本では、柔軟性といった言葉は存在していないようにも感じる。それが根付く文化であるから、上層部であるから、どうしても世界の主流は、日本のそれとは相反するモノとしてしか存在し得ない。ホリエモン然り。
それは相当に生き易い社会なのだろうけれど、世界が日本を中心にまわっているはずも無く、世界の潮流を捉え切れずして、孤立を招く構造体系が、資源すらないこの貧国の何を担っていくのだろうか。
自分はあらゆる人の国柄や文化をを受け入れながらの生活をしてきている。環境がそうなのだから仕方ない、といっても好きでその環境下にいるのでもあるが。。。だからといって、もちろん、今ある自分のスタンスがその世界の潮流゙を汲んでいるなどと断言する気もさらさら無い。ただ、常になんでも受け入れる型だけは一切崩していない。
「知っているもの」ではなく「知る」もので勝負するスタンス。歴史が嫌いな自分らしい発想でもあるのだが、依然感じるのが、日本社会でのこのスタンスの稀少さ。この受け入れる体制が整っていないことがなにより日本社会に根付く閉鎖性を生み出しているように感じてならない。
暗記に精を出す教育体系の産物か、恐ろしいまでに受け入れ口を削ぎ落とした人間が多いことに気づく。文化的な交わりが極端に少ないせいか、変化を恐れる体質、成長と束縛の意味合いすら曖昧にしてしまうこの事象は、ベクトルを常に内に内に向けているように感じてならない。韓流文化が日本市場を騒がせている現状、事実、同じ島国台湾ですら5年前に終えてしまっている事。韓流ブームに特化する意味ではなくして、日本はいつまで「今更?」という目で見続けられるのだろうか。無論、こう見られていることすら気づかないだろうけどね。