どうも、こんにちは。

また、何かを書きたくなりました。

前回の記事、内容はネガティブなものでしたが予想以上の反応がありました。

無理に明るくしなくても、素の自分の言葉が伝わったのでしょうか。

今回も出来るだけ、素直な文にしたいと願っています。

僕は思考に走って自分の本音を感じることから逃げている、それが今回の主旨です。

学生時代、頻繁に図書館に足を運びました。

興味のある内容のタイトルを見付けては、様々に読みました。

その知識は今も会話する時に、少しは役立っているかもしれません。

しかし、人間は理性だけでは成り立ちません。

隠しても騙しても、必ず何処かに感情が存在します。

何かの情報や刺激、形や音、匂いなどを感知すると心が何かしらの反応をします。

人はありのままに物事を観察するのは、実は大変なことです。

必ず外部の情報に対して反応を示し、そして判断してから行動します。

私は考え過ぎて、本来の心が感じる何かを蔑ろにしている、そんな気がします。

改めて心とは何でしょうか、そんな問いを時々、考えます。

誰かが的確な答えを出したとしても、人それぞれの認識があるはずです。

心は何処かにあって私たちの日常に大きな影響を与えますが、どうやって心があると思うのでしょうか。

今、正にこの文章を読んでいる人がいて、読みながら考えたり、何かを感じると思います。

しかし、読んでいるのはある個人が書いたプログラムに記載されたテキストデータでしかありません。

今、これをタイプしているのは私ですが、どうやってそれを確認するのでしょう。

おそらく、それを確認しているのは五感です。

もっと言及すると、五感を通した過去の記憶です。

身体の内側で思ったことを、指を動かし、目で読み、耳でコンピュータのタイピングの音をききながら、書いています。

僕にとって書くことは、楽しい行為です。

良く考えると書くのは楽しいというのも、私の判断ですがこれはいつからそう認識しているのでしょうか。

それを正確に思い出すのは、ヒプノセラピーなどで無いと無理なレベルです。

専門学校の時分、神経言語プログラミングというものに出会いました。

上に書いた内容は、それからの引用に過ぎないのです。

そして、今までの自分の膨大な判断と思考と目に見えない感情を思います。

こうして書きながら、何かを思う私とは何者だろうかと考える不思議を感じます。

それを言語化するのは、なかなか滑稽な状況です。

なぜなら何かを思いながら何かを行い、それはどういうことだろうか、と思うからです。

さて、今回はこの辺で…