●三輪山の姫巫女、モモソ姫の和平
九州物部が大和に進行したあと
大彦は北陸へ逃走し尾張家も離散。
予想に反して物部と大和は次第に融和していくようになります。
その大きな立役者が三輪山の姫巫女でした。
大和王朝の八代目クニクル王には三人の子供がいました。
・大彦
・九代目オオヒビ王(記紀では開化天皇)
・モモソ姫。
モモソ姫は母(クニアレ姫)から三輪山の姫巫女を引き継ぎ祭祀を行っていました。
彼女はその祭祀力や宗教力が強かったそうで
物部のシンボルである銅鏡も祭祀に取り入れたといいます。
そして次第にその存在が大きくなり
国を動かすほど民衆に支持されていきました。
物部の武力やオオヒビ王よりも
彼女の影響は強く
次第に大和入りした物部の人たちも
彼女含め大和磯城王朝にとりこまれていきました。
http://ameblo.jp/pelecyphoras/image-12596134288-14939927329.html
春と秋に行われる三輪山の大祭には大和から
離れていった豪族や遠方の族たちも集まり、
巻向(現巻向遺跡)には彼らの宿泊場も作られ
モモソ姫の神殿も建てられました。
富家の伝承によれば
魏書にも記載がある「卑弥呼」というのは1人の人物ではなく、歴代の巫女たちの総称であり
姫巫女→ヒメミコ→ヒミコ→卑弥呼の事であるといい、モモソ姫はその一人であるといいます。
・奈良県桜井市にある箸墓(はしはか)古墳は記紀では倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の墓とされています。
ヤマト・トトヒ・モモソヒメ
トが1文字多いですが
トヒ→トビ→登美と解釈すれば母親のクニアレ姫は登美家の人物でありその子供がモモソ姫であることからも整合性がとれます。
伝承には記してありませんが、つまり
大和・登美・モモソ姫である、と個人的に解釈しました。
しかし富家の伝承ではこの箸墓古墳に眠っている人物はモモソ姫ではなく、後の天照大神を伊勢に遷座させていくヤマト姫の墓だと伝わるそうです。
●九州物部の拡大と新たな王国
さて一方九州では再び大和征服へ向け計画がされていました。この時代の物部王国の首長は
物部イニエと呼ばれていました。
イニエ王たちはまずは南九州へ行き
薩摩の笠沙で阿多の豪族の阿多津姫を后にむかえ
薩摩半島から大隅半島へ回り宮崎の大淀川の河口に上陸します。
ここが都万(つま)国、後の日向国(宮崎県)です。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20220725/01/k45464546/96/9a/p/o0804061915151303845.png?caw=800)
阿多津姫は息子をもうけ
名をイクメと呼びました。
イニエ王たちは北方の一ツ瀬川を遡ったあたりに王宮、王国を作り上げたといいます。
三国志の魏書にこう記載があるといいます。
「そこ(伊都国)から東南に向かって行くと、奴国に到着する。伊都国からの距離は100里である。
そこから東に行くと不弥国に到着する。距離は100里である。
…南の方に行くと、投馬国に到着する。船で行って20日かかる。…5万戸余りの人家がある」
「伊都国」とは糸島郡、「奴国」とは那ノ津、「不弥国」は筑前国穂波郡、そして
「投馬国」とは宮崎西都原の「都万国」のことである。
※ 偲フ花blogより
非常に大きな国になったといい
九州の物部族たちはここ都万国に移住をし、さらに大和進出をしていた物部族たちもここに移り住んだといいます。
その規模の大きさから西の都、西都原と呼ぶように至ったいいます。
物部イニエ王とは記紀でいう崇神天皇(10代目天皇)にあたり、物部イクメは垂仁天皇(11代目天皇)にあたる人物像だといいます。
〖宇佐家伝承とモノノベ〗
・宇佐家(宇佐族、菟狭族)の宮司であった
故宇佐公康氏が代々伝わる極秘口伝書を1990年に公開しました。
その宇佐家伝承によると物部氏の原住地は筑後平野(福岡県南部)であり高良大社が氏神であり
神武東征以前にニギハヤヒが部族を率いて大和へ移ったとあり、崇神天皇(イニエ王)は物部氏の首長であったと伝えています。
宇佐家伝承によれば
物部、モノノベのモノの名の由来について、古代日本人は全ての現象には精霊がいて背後から支配しており、物質ではなく見えないモノという観念があったそうです。
物部氏とは精霊を鎮魂呪術によって司祭する部族であったそうです。剣(ふつのみたまの剣)の霊能によって外敵を征服し死霊や生霊、獣魂などの祟りを鎮めたといい、武士(もののふ)という言葉はモノノベ由来だといいます。
●都万王国と豊王国・宇佐の月神
話は戻り
イニエ王は東征にあたり大和磯城王朝の姫巫女のような民衆の心をとらえる存在が必要と考え
九州で人気のあった豊王国の月神信仰を取り入れようとします。
そもそも物部族たちは星の神(アマツミカボシ・ガガセオ)を祀り、秦族由来の道教の星神を信仰していましたが、あまり人気がなかったといいます。
大分の豊王国は宇佐家を中心にして
東九州から西中国、土佐にまで勢力がありました。
宇佐(菟狭)の信仰というのは
月の満ち欠けや昼夜の別を目安として月日を数える月読みです。
この宇佐族は出雲族よりも古く日本にいた族とされ月神信仰はかなり古くからあったそうです。
イニエ王は宇佐の姫巫女・豊玉姫を后にむかえました。そして豊彦と豊姫という子たちが生まれました。
イニエ王の都万王国と豊玉姫の豊王国が連立し、
そして各地の物部(大和や熊野や紀伊)が都万国に集まり都万国、豊国、筑紫国、肥前国の軍を束ねて東征の準備をしていきました。
しかしながらその途中でイニエ王は亡くなります。
そしてイニエ王の息子イクメ王子が後継者となりましま。
しかし彼はまだ若く同じ兄弟であった豊彦も少年だったので
豊玉姫が皇太后として東征の指揮をとりました。
この豊玉姫は日本の歴史上に名を刻む
重要な人物になります。
●豊玉姫の使節団と伝説の邪馬台国・卑弥呼
豊玉姫は大和より先に
「魏と国交をする計画」を立て
そのために中国の魏に使節団を送ります。
集めた人物
・辰韓から渡来したヒボコの子孫の
田道間守(タジマモリ)
・第一次東征で大和入りした物部の子孫の
物部十千根(モノノベトチネ)
・イニエ王の息子の物部イクメ
・大和王朝八代目クニクル王の孫で父がクニクルの血をひく武内大田根(タケシウチオオタネ)
使節団は数回に渡り派遣されました。
①タジマモリと物部十千根
タジマモリは但馬(兵庫県北部)の豪族で
韓国と交流があり通訳ができ、また漢文も読めました。副使節に物部十千根が派遣。
→金印と証書、100枚の銅鏡を持ち帰る。
後にタジマモリは黄色の幡を受け取る。
②物部イクメ
王とバレないように偽名を使う
→冠位と銀印を持ち帰る
③武内大田根
実は裏で大和王朝と繋がっている。
→青銅と鏡作り人を持ち帰る。
密かに大和へ持ち込む
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240226/21/k45464546/eb/7b/j/o0240024015406407968.jpg?caw=800)
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・豊玉姫の敵は大和王朝の他に出雲王国・吉備王国も含みました。
しかし吉備王国は第一次出雲戦争の後、吉備側も大変な犠牲と戦争疲れもあり出雲より青銅のインゴットや銅剣を手に入れると占領することなく、吉備へ戻りました。この後は吉備と出雲は平和的な関係だったといいます。
●物部東征~吉備王国征服へ
豊玉姫は東征を開始するにあたり
一度宇佐へ立ち寄り宇佐の宮にて黄色の幡八本を掲げ先勝祈願しました
豊玉軍は部隊を山陰地方と瀬戸内方面に分け
瀬戸内の主軍はイクメ王の物部軍で、豊玉姫・豊彦・豊姫の豊国軍が後に続きました。
まずは吉備と出雲を攻めるため、安芸国(広島)に上陸しました。しかし豊玉姫が病気になり、多祁理の宮を建て養生しました。
イクメ王を新たな指揮官とし先に進軍させ
吉備の海岸に宮『高島の宮』をたて、吉備王国を攻めます。
しかし安芸の多祁理の宮で養生していた
豊玉姫は亡くなってしまいます。
厳島(宮島)にて仮埋葬したあと遺骨は宇佐に戻され、一部は宇佐神宮にあるといいます。
数年のち物部十千根率いる物部軍はついに
吉備を征服しそのまま、出雲へ向かいました。
タジマモリは日本海を進み出雲王国の
東出雲の田和山に船団を率いてむかいました。
田和山は出雲の霊畤(祭祀)を行う場所でここを攻めれば祭祀色の強い国は倒れると考えていました。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240225/22/k45464546/12/05/j/o1024068315406019882.jpg?caw=800)
出雲兵も抵抗しましたがほどんどが亡くなり多勢に無勢でした。
その後タジマモリは大和へと急ぎます。
少し遅れて
物部(朝倉彦)軍が山陰回りで日本海を東に進み
豊国軍(豊彦の息子たち率いる)も向かい
西出雲の王宮を狙っていました。
うまく侵入し出雲を追い詰め
出雲軍はついに久奈子の丘に逃亡します。
そして西出雲王17代目山崎帯はついに降伏し
西出雲王国は終焉を迎えました。
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一方、吉備を征服した後の物部十千根軍は
伯耆国方面より東出雲へ向かい激戦のち、物部軍の圧倒的勢力に出雲兵は守ることを諦めました。
東出雲王の17代目副王の富大田彦はついに軍を解散、ホヒ家のカラヒサに敗戦処理をまかせ、親族とともに王宮から離れ熊野(現松江市八雲町)へ隠れます。
王宮では物部十千根とカラヒサが講和条約を結び
『出雲国を除く広域出雲王国の支配権を物部政権が受け継ぐこと、そして王宮を進駐軍司令官・物部
十千根が使うこと』を約束しました。
東出雲王国は終焉を迎えました。
東西の出雲王国は長い歴史を閉じることとなりました。
そして物部軍と出雲軍のこの戦いを
「第二次出雲戦争」と呼びました。
出雲王家は滅びたわけではなく、物部たちと共存していくことになります。
※続きます。
※引用元somosomoblogより。