辰韓のヒボコ王の渡来


富家の伝承によれば


辰韓(前2世紀~356年の朝鮮半島南の国)の王に

ヒボコ(日矛)という長男がいました。


辰韓王はヒボコの弟に後継者になるように、

争いを避けるため家来と財宝を持たせて

ヒボコを日本の出雲へ送ったといいます。


ヒボコは船団を引き連れ薗の長浜につき出雲王に上陸の許可を求めます。

 


出雲王は出雲の法律を守り先住民の土地を奪わない事を条件としたが、ヒボコはそれを拒否したので、出雲・石見・伯耆へ上陸することを禁じます。


ヒボコはさらに東の但馬国(兵庫県北部)へ進み、円山川中流の沼地にて船上生活をします。

その後沼の排水工事を指揮し次第に平野にさせ、その功績で住むことを許されたといいます。

(彼を祀る出石神社が豊岡市にあります)



ヒボコの死後

子孫たちは勢力を増し、

出雲国領播磨国(兵庫県南部)へ進出を図ります。



大和王朝の播磨・吉備・出雲への進出


・一方で九州の物部王国も支配地を拡大。

筑紫全域・壱岐・対馬・伊予・土佐も治め

近畿地方の進出を図ります。


しかし勢力がまだ完全でないと考え

但馬国のヒボコの子孫と共謀し、播磨国を南北から挟み撃ちをしようともちかけます。


・そしてヒボコ勢が出雲領の播磨へ進軍します。

出雲国は大和王朝の7代目フトニ王(記紀でいう孝霊天皇)に援軍を頼みますが、フトニ王はこれを

無視します。


結果、出雲軍はヒボコ軍に敗北します。



(この一件で出雲と大和の連立政権は終わりを迎え

出雲は共通のシンボルの銅鐸をやめ銅剣を新たなシンボルとしました)


・一方九州物部王国もヒボコ軍を裏切り

動かなかったといいます。


・播磨国を占領したヒボコ勢ですが

そこに大和王朝のフトニ王は播磨国へ攻め入りました。

丹波の海部氏が但馬国北部を占領しヒボコ軍は方々へ散っていきました。


・播磨国を占領したフトニ王は

息子であるイサセリ彦(大キビツ彦)とワカタケ彦(若建キビツ彦)に出雲領の吉備を占領させます。吉備の鉄を狙っていたといいいます。


しかし大和王朝では内部での覇権争いが劇化していました。


・ついにフトニ王は大和の王から失脚し地位を奪われ、吉備に移ります(吉備王国)。


さらにフトニ王は息子たちに出雲国へ攻撃の指示をします。

フトニ軍は和国で最も良質の砂鉄の産地を狙うため出雲へ攻めていきました。


この大和吉備VS出雲王朝の戦いを

第1次出雲戦争と呼びます。



・出雲は山岳にてゲリラ戦をしますが

次第にフトニ軍が攻め入り、出雲は休戦するか抗戦するかで協議。

結果、西出雲は吉備の属国となってしまいました。

出雲王朝は危険を感じて銅剣・銅鐸を各地に埋蔵していったとされます。


・そして東出雲と吉備は伯耆国の山で激しいゲリラ戦になっていました

この戦いで出雲軍の三分の一が戦死したといいます。


そこで、事態は急変します。



物部王国の急襲、第一次物部東征


丁度同タイミングで九州物部王国が紀ノ川から大和に侵入するという情報が入り

吉備軍は出雲と休戦をもちかけます。


実は物部王国軍は吉備と出雲の争いの影で全て狙っていました。


物部軍による大和の急襲より少し時間を戻すと




大和王朝では主力となる勢力がおらず

大和の登実家は次は物部勢力が大和を統一するだろうと先を見越していました。


(九州物部王国の第一次東征の進路)

物部王国の物部五瀬(記紀では彦五瀬命)率いる
大船団は九州を抜けると土佐国の南岸へ進軍します。

物部のシンボルは銅矛でしたが、持ち運びしやすいように銅鏡に変更しています。

紀ノ川まで進出した物部軍は
紀伊の名草軍(首長を意味する名草トベ率いる女性集団)に撃退され、物部五瀬は戦死します。
(和歌山市の竈山神社、彦五瀬命を祀るwikiより)

同行の彼の弟たち(物部ミケヌ?イナヒ?)は
海路で熊野へ向かい、熊野川中流へ進み、安全な中州に陣をおきました。

その中洲は大斎原と呼ばれる旧熊野本宮大社の土地にあたると、伝わります。
伝承によればここで戦死した五瀬を祀ったといいます。(ということは熊野本宮大社の祭神は五瀬)
(和歌山県田辺市の大斎原、wikiより)

九州物部王国の人々は熊野に住んだ者もいました。


一方

大和の登美家は物部国と連携して政権を作ろうと計画しており、物部王国と密かに接触しており

物部たちを熊野から大和へ案内します


これを記紀神話では鳶(トビ)の道案内や八咫烏(ヤタガラス)の道案内といいました。


(伝承にはありませんが、八咫烏は中国神話で太陽の化身にあたり、物部の祖である徐福しかり秦国人が持ち込んだとされる霊鳥信仰と関係する、という見方やトビ→トミ→登美という語呂の変化である、とも考えることが出来るのではと思います)



(熊野本宮大社のシンボル八咫烏)

・その後物部軍は

熊野→吉野→国栖くず→宇陀→墨坂→磐余(いわれ)へと入ったといいます。

記紀では豪族と戦う様子が描かれていますが

富家伝承では「戦いはなかった」といいます。


⭐この一連の物部国が九州より大和へ進出した出来事を第1次物部東征と呼びます。




そして大和入りした物部軍は

銅鐸を壊し、銅鏡・銅矛の祭祀を広めようと

登美家のまつりの庭(鳥見の霊時)を占領し

三輪山の祭祀を妨害します。


(鳥見の霊畤、桜井市の等彌神社境内最奥地)

進出後の物部と大和、大彦という人物

大和磯城王朝はこの時は八代目クニクル(記紀では孝元天皇)であり、登美家の后クニアレ姫を娶り大彦』『モモソ姫』をもうけていて


クニクル王は物部と妥協し物部族の娘ウツシヨメを妃としました。


大彦は笛吹村の東北の曽大根で育ち

別名ナカソウネヒコ(中曽大根彦)と呼ばれていました。

彼は元々物部を嫌っており

この銅鐸祭祀の妨害が許せず恩を仇でかえすやり方に心底腹が立ったといいます。


登美家・尾張家は銅鐸祭祀を信仰していたが物部は依り代を鉄刀とした布都御魂を神とする武神信仰だったので、両者は対立、宗教戦争となったといいます。

(銅鐸)

大彦には尾張一族・母の妹の息子たちも加勢し一時は優勢であったが、次第に劣勢となり、琵琶湖湖畔まで退却、軍を待機させ大彦は出雲国へ助力を願いました。


しかし当時は吉備国との戦後であり

都万国(宮崎)から物部勢が攻めてくるという情報もあったため、助力は出来ずその代わり北陸の豪族を紹介、越国へ退却していくことになっていきます。

また、大彦は摂津三島の阿武山にちなみ『安倍』と名乗るようになりました。


・大和の尾張家も散り散りとなり、故郷の丹波へ戻る、紀伊国の高倉下の子孫と合流する、摂津国の三島へ逃れる、伊勢湾北部へ移住(後の尾張国)するなど、離散していきました。


・記紀には神武天皇東征における大和の賊の話があります。

「大和の豪族ニギハヤヒによって殺されたものはノ長髄彦(トミノナガスネヒコ)」として

悪名高く記されていますが、富家の伝承によれば彼が大彦であったといいます。


○トミ(登美)ノナガスネヒコ(ナカソウネヒコ)




⭐三種の神器

・初代大和王の海村雲は出雲国より祝いの品として剣を授かったといい、これが村雲の剣として

海村雲剣→天叢雲剣となり磯城王朝以後は尾張家が持つようになり登美家へは渡さなかったそうで、磯城王朝は曲玉(勾玉)の首飾りを王位継承のシンボルにしたといいます。

天叢雲剣は今、尾張家が建てた熱田神宮のご神体であり、三種の神器の一つでもあります)


熱田神宮


※続く



※引用元Somosomoblogより。