出雲の大事件、隠された歴史

富家の伝承によれば

ある時
八代目主王の八千矛(大国主)が
薗の長浜(現出雲市西園町)へ行ったまま行方不明となりました。

美保(現松江市美保関町)にいる八代目副王の
八重波津身(事代主)へ知らせるため
重臣であったホヒ(秦国からの使者)の息子、タケヒナドリの船は玉川を下り、
王ノ海(現、中海)を渡ります。
同時に八重波津身も船で西に向け進みます。

しかしながらその後彼も
行方不明になりました。


その後
八重波津身は
弓ヶ浜半島の栗島の洞窟で餓死の状態で発見。
(鳥取県米子市の粟島神社。鎮守の森の周囲はかつては中海だった)


大国主・八千矛も
島根半島の猪目洞窟にて同様に餓死していたといいます(幽閉されていたとされます)。

これは出雲風土記
『夢で猪目洞窟に行くと必ず死ぬ』とあり
また
伯耆国風土記にも
スクナヒコ(事代主)が実った粟の穂に乗ると弾き飛ばされて常世(あの世)の国へ着きました』とあります。

弓ヶ浜半島は黄泉(よみ)の島と呼ばれるようになり、出雲の事を黄泉の国と言うようになったといいます。

ちなみに
富士林雅樹著『出雲王国と大和政権』にて
すべてホヒ親子の犯行であったことを海童(連れてきた斉の国の子供たち)の一人が白状。
神門臣家は二人に死罪を求めたが、結局富家の召し使いとして引き取り、ホヒ家は奴やっこと呼ばれたそうです。

徐福のスパイであった二人の犯行がばれたので、徐福は慌てて妻子を残し秦に帰国したといいます。
この一件で出雲の半数の人は彼ら秦のものたちと暮らすのを嫌い、両王家の分家のもとへ移住していきました。

大国玉・事代主の子供たちの移住と始まり

・事代主の息子の
建御名方富彦(タテミナカタトミヒコ)は母の沼川姫を越後国へ送り、自分は諏訪へ向かい、そこで一大王国を築きます。

・事代主の娘の
美保須須美(ミホススミ)は美保関にて社を立て父を祀りました(美保神社)。
(美保神社、wikiより)

・他の息子の天日方奇日方(クシヒカタ)は
母である玉櫛姫の実家、摂津三島へと向かいました。

彼はその後大勢の出雲族・三島族(母は三島の豪族であった)を引き連れ摂津から
大和の葛城山の東麓を開拓します。

さらに自分の王家の名、東出雲王家・富家から
登実家と名乗ります。

(出雲地方では神のことをカモと呼んでいたので後に登実家は葛城のカモ家とよばれ、いつしか鴨の字があてられたといいます。奈良県の鴨都波神社、高鴨神社はその名前が残ります。
(御所市、高鴨神社。全国のカモ神社の総本山)

👆️御所市の葛城一言主神社。
一言主は事代主とされ、出雲族は「言向け」と呼ばれる言葉・説得で統治した一族でした。)


・クシヒカタの妹のタタラ五十鈴姫
奈良の三輪山で太陽の女神を祀る初代女司祭者(姫巫女ヒメミコ)となり、彼女は後に
「初代大和王(大和王朝)の妻」となります


・大国主の妻で
宗像三姉妹の多岐津姫は姉の田心姫の住む
東出雲に移住。

・大国玉の息子の味鋤高彦(アジスキタカヒコ)は
大和の葛城山の南側を開拓します。
西出雲王家・神門臣家から高鴨家と名乗ります。

・孫の多岐津彦はクシヒカタを頼り妹の大屋姫も葛城へ進出。(多岐津彦は高鴨神社、御歳神社を建てた)
・大屋姫の息子は後に紀伊へ向かうことになります。

古代大和における勢力図↓

出雲での事件後、出雲王家たちはこうしてそれぞれ諏訪、摂津、大和へ分かれ進出していきました。


事件後の出雲

出雲では出雲王朝九代目に鳥鳴海(トリナルミ)が主王となり跡をつぎました。

事件後秦へ帰国した徐福は10年後
再び大勢の専門技術者や五穀の種をもって
今度は北九州へ上陸、吉野ヶ里へ移りました

そしてまた名をかえ今度は
ニギハヤヒ』と名乗りました。
(出雲の伝承より)




出雲王朝の歴代王とまつわる話

・出雲王朝の六代目主王・臣津野は古事記でいうところの八束水臣津野命、淤美豆奴神、にあたります。彼は神門臣家に引き取られた養子。

・古事記の国引き神話で出てくる「高志」は越国(越後国・越中国・能登国・加賀国・越前国)のことを示しているといいます。
出雲王朝が平定した領土は広く、どれだけ拡大していたかを示すことを国引きに例えたものだという話です。


・臣津野の息子の吾田片隅(あたかたす)は
北九州へ向かい、そこで宗像家(神門臣家の分家)をつくり、宗像大社の社家となりました。
それを示すように新撰姓氏録(平安時代に作成された古代氏族名鑑)には宗形君は大国主命六世孫吾田片隅の子孫である、と書かれているそうです。

・事代主の父親であり七代目・東出雲王家の天之冬衣(アメノフユキヌ)の時代でも領土は拡大していて、石川県・能登半島を平定したという記録もあるそうです。

・歴史というのは完全に消滅させることは出来ないようで、何かの形・抗った証・別の思惑などによって後生に残っていることがあるようです。
出雲の歴史も同じ。
 
古事記に記載がある十七世神(とおまりななよのかみ)は出雲王朝の歴代の王たちを記しています。
(当て字や細かい違いはある)

👆️欠史8代と同じような扱い・認識のようですが出雲の伝承を知るとそれが史実に基づいたものであることがわかります。



※続きます。


 


※引用元はsomosomoさんblogより。