「富家の伝承」が伝える真実の歴史。
出雲族が島根に築いた古代出雲王朝。
出雲王朝は17代まで続きました。
○出雲王朝八代目の王・八千矛(やちほこ)の時代
この時代に王朝を揺るがす
大きな出来事がありました。
中国の秦(紀元前905~紀元前206)から
出雲の海岸に、使者が船でやってきました。
秦国人である『ホヒ』と
その息子『タケヒナドリ』は
手土産として銅鐸に似た青銅の鐘(かね)と剣を献上、これから『徐福』という秦の方士(道教の士)と多くの秦の者たちが来ることを告げ
上陸の許可を求めます。
(※徐福と始皇帝の話は、紀元前90年頃に司馬遷が完成させた中国の歴史書『史記』にも記述があります)
八千矛は上陸を許可。
ホヒたちを王家につかえることとなり
翌年、徐福率いる大船団が
今の島根県太田市の『五十猛海岸』へ
上陸したといいます。
秦の人たちは
中国式の機(はた)織りを土地の人に教えたので
秦、すなわちハタ族となりました。
そもそも出雲王家・出雲族は穏和な族であり
協調性があったので
彼らを受け入れ、王朝からの娘と結婚させ
絆を強固にしていきました。
徐福もまた出雲王朝の娘(高照姫)を娶り
息子が誕生。
名前を『五十猛(いそたけ)』としました。
(徐福の父の名が徐猛だったので同じ漢字を一字いれたといいます)
五十猛は後に丹後(京都北部)へ移住し名を
『海香語山(あまのかごやま)』と名乗ります。
・五十猛(出雲名)→海香語山(丹後名)
徐福は道教の士であるため
神仙思想(蓬莱)・北斗七星を神聖視
崇拝していたといい
医薬や化学(錬金術、煉丹術)、天文学、占星術、祈祷、呪術など様々な分野を極めていたそうです。
また中国の穀物の神である『宇賀神』も崇拝していました。
さらに
中国神話の女神である西王母(さいおうぼ)の使いである霊鳥とされた『三足鳥』(ヤタガラスの原型?)、霊獣とされた『九尾の狐』の信仰ももたらしたといい
稲荷信仰で有名な京都の伏見稲荷大社は秦氏の創建になります。
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徐福は出雲では和名を『火明(ほあかり)』
と名乗り
次第に東の出雲地方へと進出していきます。
徐福は斉の国出身の道教の士である
とされていますが
その存在は懐疑的であったそうです。
しかし1982年、中国の学者が今の中国江蘇州に『徐福村』なる村の存在を発見しました。
先祖の言い伝えや系図、徐福の一族の末裔も見つけると、中国の学者たちの間で論争となりました。
富家の伝承によれば
徐福は記紀のスサノオであるとしています(個人的には疑問はありますが)。
伝承では一族が蘇州(江蘇州)にも移住し発展したため、蘇州を逆にして州蘇(スソ、またはスス)、の男たち、つまりスサ、ススの王がなまり、スサノオとなったといいます。
また彼の出身である斉国では
『八神信仰』というのがあります。
八神とは史記の『封禅書』によると
天主、地主、兵主、陽主、陰主、月主、日主、四時主。
特に天主はユダヤの信仰に基づきます。
そして兵主は
中国神話に登場する蚩尤(しゆう)という戦闘の神です。
獣身で銅の頭に鉄の額を持ち、四目六臂で人の身体に牛の頭と鳥の蹄を持つとか、頭に角があるなどといわれています。
蚩尤は風・雨・煙・霧などを巻き起こし荒ぶる神でとにかく恐れられた戦闘の神であったされます。
(蚩尤。wikiより)
記紀において
スサノオは神仏習合し『牛頭天王』と同一視されました。
高天ヶ原を追われたスサノオは新羅のソシモリに降臨し、のちに出雲に渡ったとされます。
ソシモリは朝鮮語で牛頭または牛首を意味します。
牛頭天王とは
釈迦が初めて説法をした祇園精舎の守り神のことであり、牛の頭を持ち赤い角を生やした異形の姿を持つ神であります。
※続きます
・富家の伝承に関しては上記blogより多数
引用させていただいています。
より詳しく深く知りたい方は
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