


白洲次郎(1902~1985)は、明治35年、現在の兵庫県芦屋市に生まれ、大正8年、旧制第一神戸中学校を卒業後、イギリス・ケンブリッジ大学に留学し、授業を聴講するかたわら、英国貴族の知己を得るなど大きな収穫を得て、家業が傾いたため、昭和3年に帰国、英字新聞の記者となり、翌年、樺山正子と結婚、その後、セール・フレイザー商会を経て、昭和12年、日本食糧工業(現・日本水産)の取締役となり、海外で商談を行うことも多く、駐イギリス全権大使の吉田茂と知り合い、近衛文麿のブレーンとしても行動し、昭和14年に第二次世界大戦が勃発したことから、昭和15年に町田市郊外の農家を購入して、一旦仕事を辞め、食糧不足を見通して、自給自足の生活に入ったようです。
昭和20年、敗戦直後、東久邇内閣の外務大臣に就任した吉田茂の要請を受け、終戦連絡中央事務局の参与に任じられたことから、GHQとの折衝の矢面に立ち、「占領を背負った男」として、昭和26年9月のサンフランシスコ講和条約成立まで、激流の中に身を置くことになり、この折衝での白洲次郎の振る舞いを支えていたのは、「日本は戦争に負けたが奴隷になったわけではない」という確たる信念であり、イギリス留学を通じての英語力や海外経験の自信があったため、ひるまずに立ち向かえたのでしょうが、保管していた書類を「武相荘」で燃やしてしまったらしく、一次資料が残されていないこともあって、交渉過程の真相は藪の中です。
自分の趣味に合うようにこしらえた家に住み、気に入った逸品に取り囲まれて暮らすのは、はるかなる理想郷を実現したように思えてきますが、心底うらやましいと感じるのは、経済的に恵まれていたことに加え、趣味、嗜好の似通った人たちに囲まれていたことであって、さまざまなこだわりや美意識に対して、本質を理解し、共鳴してくれる人と出会える環境にあったのは、最高のしあわせであり、至福の時間であったと思われます。
母屋の奥の方に、蔵書の詰まった本棚に囲まれるようにして、文机のある狭い部屋がありましたが、このような空間で、思索にふけり、感覚を研ぎ澄ませながら、緑豊かな林の中を散策できれば、「吾唯足知」世界が無限に広がっているのを実感できるものと思われました。