質の高い教育を受けて、教養もあり、振る舞いは気品にあふれて、身のこなしも洗練され、何よりも神からのギフトにより、ピアノの鍵盤を叩けば、誰しもが瞬間にに打ちのめされてしまうきらめく才能に恵まれ、人も羨む裕福な暮らしに身を置きながらも、「黒人」というだけの見た目で扱われ方が変わり、周囲にそびえ立っている壁によって、エリートとしての誇りが揺らぎ、アイデンティティが確立できないもどかしさは、ただの天才としての孤独に加え、人種としての疎外感に包まれ、苦悩がより深い。
選ばれてあることの恍惚と不安がある者にとって、粗野で下品で本音丸出しで生きる者は、接したこともない別世界の生き物であって、まったくなじめない存在なのだが、「白人」というだけで、行動に何ら制約を受けることもなく、財産も、才能も、教養も何ひとつ持ち合わせていないにもかかわらず、家族や仲間に囲まれて、明確な自己を確立し、度胸と腕っぷしだけで道を切り拓いて行くバイタリティにあふれた生き方は理解しがたいものの、時に一撃を食らわせることによって、時に金をつかませることによって、難題を解決する能力を目の当たりにすれば、自分にはない才覚の持ち主であることを理解して、キレイゴトだけでは人も世の中も動かない現実に気づかされる。
時間を共有しているうちに、運転手とその雇用主という立場を超えて、個人と個人、ひとりの人間としてのふれあいが深まれば、人種などという問題は棚上げにされてしまうのは自然の流れであって、互いを知れば、差別などすること自体が恥ずかしくなる。
幼少時から、レニングラードで規律正しく、志高くひとつの道に精進してきたエリートが、複雑な思いに閉ざされていた心の重い扉を開け、思いをぶちまけることによって、アイデンティティを確立し、魂を解放することができたのは、まったく正反対の思いのまま荒くれて生きる男のおかげというのも、「できすぎた友情物語」という気がしないでもないが、人間なんて、清いだけでも面白くないし、何も変わらないぜ、と共感できるところも多分にある。
1960年代のアメリカ南部は、実際にはもっとひどい差別が公然と行われていたとは思えるが、天才に恵まれた黒人ピアニストが、あえてその渦中に身を置くことで、何かしらの変革をもたらせることを期待して、果敢に演奏旅行に乗り込んで行った心意気と、当然ながら、やはり厳しい現実との落差には、差別意識の根の深さを感じるばかりで、こればかりは、解決法などはなく、個人としては思いとどまれるものが、集団になると露骨になるというのも人間の醜悪さの現れであって、醜悪な人の前では、知性も教養も何の役にも立たないのが残念だ。