
映画が上映され始めて、汽車が駅に到着して、立ち上る煙の中からヴィヴィアン・リー演じるブランチが現れる映像を見て、この映画を東京の二番館で見たことを改めて思い出し、なぜ記憶の底に沈んでいたのかは、見終わってから腑に落ちました。
貧民街のアパートを舞台に、粗野で乱暴で無神経な肉体労働者と暮らす妹のところへ、財産をすべて失い、落ちぶれた元高校教師の姉が流れてくることによって物語が展開するのですが、いまでこそ「パワハラ、セクハラ野郎」や「ドメスティック・バイオレンス夫」と分類されて、明かな犯罪行為であると認識されているものの、1950年代では、よくいる粗暴な旦那であり、家庭に収入をもたらす一家の大黒柱であり、多少の暴力や罵詈雑言には、黙って耐え忍ぶほかない時代であって、かつての裕福な暮らしぶりが忘れられず、気取った立ち居振る舞いをするような女は目障りでしかなく、ことあるごとに攻撃するのも本能の赴くままであって、本人に悪気がないどころか、全面的に自分のやることは正義だと思い込んでいるので、他人を思いやるなどとキレイゴトは頭の片隅にもなく、やるとなったら徹底的なのも欲望の赴くまま、それを許してしまう女房も、現実によくいるタイプとはいえ、いまなら「共依存症」と診断を下されるであろうことは疑いようもなく、この映画をすべて忘れ去っていたのは、一言で述べれば、ここに登場する3人が大嫌いだということに尽き、いやなヤツだと思った瞬間に遠ざかり、二度と顔も合わせないし、いやな場所からはすぐさま立ち去り、一切近づきもしないという個人的な性分から、映画とはいえ、嫌悪感をもよおすような人間は、記憶からぬぐい去っていた、ということに気づきました。
もちろん、作品としては名作であり、高校教師の姉が町にいられなくなった理由を、説明をする回想シーンなしでありながらも、長くはないセリフのみで充分に伝わってきて、むしろ想像が広がることによって、より深く胸に響いて、しみわたり、それは、登場人物の造形が、現実以上に作り込まれていることが基本にあって、さらに演技者のあまりの自然さが真に迫って、いまそこで起こっているトラブルを、思わず止めに入ろうかと、腰を浮かせそうになるほどで、スクリーンに没入できました。
映画の見方とすれば、もう少し全体を俯瞰して、もっとましな感想を述べた方がよさそうであって、個人的なつまらない体験と照らし合わせたところで、何の値打ちもないのですが、若くして見た時は、いまよりもさらに狭量であり、おかしなこだわりや思い込みのかたまりであって、多少の経験を馬齢とともに重ねた結果、こういう人も確かにいるよな、という風な軽い受け止め方もできるようになり、虚栄心の発露に対しても、好きにはなれないながらも、しようがねえな、と受け流せるようになり、この映画に通底する哀感にも、明日はわが身というようなわずかばかりの共鳴を感じ、人生ってそういうものかもしれないなという社会の底辺の哀歓に共感しました。