


母屋の玄関の横にある窓口で入場券を購入し、くぐり戸から入って、母屋のところまでくると、日本庭園が見渡せて、中央を低く半円状に刈り込まれた樹林から遠くに東山が望め、両側の樹林がさながら東山からつづいてきているように見えて、中央の流れは、池泉というよりも川のせせらぎのように思われて、田舎育ちの者にとっては、こどもの頃に見た郊外のありふれた風景のようであって、室町や桃山時代の庭園のような勇壮な石組による豪放磊落な印象はまったく受けず、大名庭園のような学識や趣味を反映させたこれ見よがしの絢爛さや権勢を誇るような豪華さはなく、ただ、ひたすらに心を和らげるおだやかな風景が広がっていました。
長州藩の低い身分から身を起こし、武術で身を立てようと精進し、決して恵まれた幼少時代を過ごしたとは言えないながらも、松下村塾の英俊たちと交わり、奇兵隊に入って頭角を現し、長州藩を倒幕にまとめ上げ、明治維新後は、渡欧して各国の軍事制度を視察し、新政府の軍政家として辣腕を振るい、日本陸軍の基礎を築き、日本軍閥の祖として、政官界の大御所として、権力を掌握して大きな影響力を持ち、元帥陸軍大将まで上り詰めた山縣有朋は、毀誉褒貶が相半ばするのは大立者の常としても、激動の時代を生き抜き、一国の将来を左右する地位にあることを自覚して、国づくりに粉骨砕身、邁進したのは確かな功績であり、その胸中に去来したのは、国の行く末を論じて、国を思う心の大元となったのは、ふるさとの山河であり、人間を育む自然を何よりも大切にしていた現れが「自然主義の嚆矢」といわれる庭園造りに反映されているように思え、軍事力増強は、国を守るというその一心にあったのだろうと推察します。
幕末から維新にかけて、多くの戦いで多くの同胞の血が流れ、優秀で有能な人材が失われ、生き残った者の務めは、国を富ませることに尽き、山縣有朋はその役割を立派に果たしたと考えられます。
琵琶湖疏水から引いた水が三段の滝からよどみなく流れ、志半ばにして倒れた同朋の魂を流れによって清め、弔い、土に還らせようとするかのようでもありました。