


「真実の愛、真心」などと浮世離れしたことを口にして、身分違いをものともせず言い寄ってきた男を、ほだされて、よろめいて、受け容れてしまったのが発端でもあり、けちのつき始めという気にもなってくるものの、「家のためなら女を泣かす」男たちしかいない封建時代にあって、ほんとうの幸せを求めることなど許されるはずもなく、心のままには生きられない。
自らの意思とは相違して、言い寄ってくる男によって、幸せにもなれば、不幸にもなり、浮き沈みを繰り返しながら、少しずつたくましくなって行くが、「美人」であることがおそらくは浮き沈みの激しさを増幅したのであって、十人並みで、周囲に埋没していたのでは、こうはならなかったであろうと思われる。
気高い魂は持ちつづけながらも、不運が重なるうちに落ちぶれて、どん底から世間的には上層に一気に引き上げられたかに見えるのだが、「ほんとうの思い」で生きられたのか、という問いかけが身を焦がし、遁走して、到達したのは尼僧となって角づけして歩く「無我の境地」であって、すべてのしがらみを振りほどいた一点においてのみ、自らの意思を通したのであって、時代の抑圧に押しつぶされながらも自らの進むべき道を見出すことができたのは、さまざまな階層のいろいろな人々をつぶさに見てきて、ようやくたどりついた悟りであったと、眼を見開いた迷いのない表情が語っていたように見えた。
翻弄され、流されるままに生きるのは、武士であっても、商人であっても大差はなく、「カネ」に踊らされ、「身分」にさいなまれるばかりで、ほんとうの思い、ほんとうの幸せすら意識できないのであれば、下を見て愚弄する資格など、誰にもありはしない。