社会の底辺で寄る辺ない者同士が肩寄せ合って暮らすのは、わけありな弱者の生き方としては確かな道なのだが、犯罪がからむとよりどころがあやふやになってきて、いつ、どのような形で終焉を迎えるのか、きわめて危うい状況であって、そこから抜け出そうにも方策は見つけられず、葛藤や逡巡があっても、日々が無為に過ぎるのみで、いま、このときさえ幸せであればと、目の前のことしか考えられなくなるのも貧困層には無理もない。
わけありな者が集う擬似家族であればこそ、本音をさらけ出しつつも、関係を壊す最後の一線を越えず、自分の痛みを知る者だからこそ、他人の痛みにも気づいて、寄り添うことができ、たとえかりそめであっても結びついて、「絆」を深めて行くのが救いであって、事情を知らない者から見れば、結びつくのは「カネ」だ「セックス」だと表面的で納得しやすい結論で取り繕おうとするが、そういった欲はどのような階層でもあることであって、それを気づかないふりをしてごまかすか、見てみないふりをしてやり過ごすかだけの話であり、率直に自分の欲求を表現できる方が幸せであり、本音を聞かされれば、真摯に向き合い、全身で受け止めるほかない。
この「家族」を、事件が起こるまで、周囲の人たちには、まったく見えていなかったのであり、見ようともしていなかったのは間違いなく、社会から疎外されていたにも関わらず、事件が露見すると、テレビの画面を見て、自分が安全な位置に立っていることを確認した上で、通りいっぺんの批判をして、糾弾するのみでしかく、「捨てる側」の強者にとって、すべては他人の痛みだから、問題は何ひとつ解決しない。
「万引き」のほかにも、パチンコ、風俗、育児放棄、家庭内暴力など、貧困の連鎖の源が必然的に登場するが、それらはまさに見てみぬふりをして、先送りしている問題ばかりであり、自己の責任であったり、資質の問題として立ち入れない領域に祀り上げられているものの、裏側には搾取の構図や、役人の怠慢があるのは明白であって、それもまた、立ち入ることのできない領域で、戦後の民主主義が人々のつながりを希薄にして、助け合いを認められなくしてしまったという思いもして、とにもかくにも、「法治国家」を生き抜くには、底辺にすべり落ちない努力が肝腎とはいえ、生まれ育ちによって貧困から這い上がれない社会も弱肉強食の娑婆であって、殺伐として、寒々しい。
あまり労働意欲のない人ながら、絵に描いたような幸せな家庭を夢見ていた男にとって、かりそめで束の間とはいえ実現したのは、人生においてもっとも輝いた日々であったと思えるし、「愛」だの「思いやり」だの口先だけのまやかしではなく、「生活」や「生き抜く」ということに精一杯考えて、できる限り取り組んだのであり、陋屋に集っていた「家族」にとっても幸福な日々であり、子供たちにとっては、貧しくとも肩寄せ合って暮らしたことを、あたたかく思い出すことだろう。