


最終日の日曜とあって、館内は混雑していましたが、茶碗や香合、棗、水指などの逸品をゆっくり見て、順路に従って茶室や展示室を見て歩き、大きな展示室に入って、ガラス越しに書画や茶道具などを人の流れに沿って見て行きました。
展示室の終盤に差しかかり、一幅の掛軸の前で思わず足が止まってしまい、これは技巧の極みであると直感はしましたが、見れば見るほど吸い込まれて離れがたく、人の流れから一歩下がって阿呆のように眺めつづけて、思いがさまざまに去来し、筆で真円を描いただけなのに、気が遠くなるような夜空の彼方の宇宙の広がりは、貧血を起こして真後ろに倒れてしまいそうなほどであり、空といえば空であって、何も描かれていないながらも、細く確かな墨によって、明らかに内と外とが分けられているのであるから、内側に詰まっているといえば、それは詰まっていて、内側には何もなくて、外側から押し寄せているといえば、外側から押し寄せているのであって、その均衡はさながらこの世そのものであり、人間そのものであり、自分そのものであり、どうとらえるかは、どう世の中や自分と向き合っているかによるのだろうと思われました。
「一円相」は雪舟の作ですが、ここまで到達する険しい道のりを思い、これを描く時の精神の状態を想像し、果たして一気呵成に描き切ったものなのか、ゆっくりと筆を運んだものなのか、心得のない者には想像もつかないものの、紙を切り裂かんばかりの精神集中の張りつめた空気や、筆に墨をのせて心象を紙の上に現して行く無の心境は、凡人にもそこはかとなく伝わってきて、あれこれ理屈を並べるよりも、ただひたすらに描かれたひとつの円は多くを語りかけ、その声は何も語らなかったのと等しく魂に響いてくるばかりであり、「一円相」の境地にたどり着くことはほぼ不可能であっても、ひとつの高みとして見上げて、理想としたいと思えます。
美術館をあとにして、雑事に追われる日々に舞い戻りましたが、いまも「一円相」が浮かんできて、答えの出ない虚空をつかむような思いをめぐらせています。