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奈良県五條市が「明治維新発祥の地」としているのは、大政奉還の4年前の文久3年(1863)8月17日、平均年齢25歳の勤皇の志士たちによる天誅組30名が、幕府直轄地である五條代官所を襲撃し、代官ら5人の首を刎ね、火を放ったのち、五條市内の櫻井寺に本陣を置き、翌18日に「五條御政府」を打ち立てたためであり、ペリー来航以来、攘夷派と開国派による騒乱がわき起こり、桜田門外の変や東禅寺事件、下関戦争などが勃発して、さらに情勢が緊迫する中、尊皇攘夷急進派による初めての武力による蜂起であり、尊王の志を持ち、倒幕の先駆けとなった義挙と見ているためのようです。
時あたかも、八月十八日の政変が起き、公武合体派によって尊皇攘夷派が京都から追い出されてしまうと、情勢は一変、19日にその知らせがもたらされた際の天誅組の面々の胸のうちは、いかばかりかと想像するのもはばかられるほどの衝撃を受けたであろうとは思われますが、天誅組にとって後ろ盾を失い、大義名分がなくなって、孤立無援の状態に陥ったことを悟り、投降しようにも代官所を襲撃してしまったあとでは、進退も窮まり、落としどころを探ろうにも、攘夷戦争に備えての浪士として幕府に雇ってもらうわけにも行かず、勤皇の志士として玉砕あるのみ、といった心情に傾いて行ったようにも思えます。
当初、孝明天皇の大和行幸の露払いをして、先鞭をつけるつもりが行幸自体が中止になり、挙兵したその日に政変が起きて、逆賊になってしまうという不運が重なり、もとより確固とした策やビジョンがあったわけでなく、一行が大和行幸にきたら親兵として仕えよう、という程度の見通しで、尊王の思想に衝き動かされて勇ましく立ち上がってみたものの、後ろを振り返ると誰もついてきていない状態であり、機は熟していなかった、と気づいても、引き返す道までは想定していなかったために、壬申の乱以来の勤皇の兵である十津川郷士に協力を求め、高取城を攻めて、撃退され、追討軍に追いつめられて、40日間ほど、弱小勢力で戦闘をつづけながら、主将たち7人ほどを長州に逃すため、東吉野村で決死隊が伊勢藤堂軍に突入し、天誅組は壊滅しました。
現代を生きる者の考え方に過ぎないのかもしれませんが、いくら天皇のため、民衆のためと誇り高く旗揚げしても、武力によって、戦力の乏しい相手を選んで攻め入り、戦闘の口火を切るというのは卑怯に思え、何となくいやな感じがぬぐえず、どうせ戦うのであれば、公武合体派の雄藩にでも挑んでもらいたかったものだと思えてなりません。
時代の変わり目には、他に先駆けてことをなす人たちが現れますが、信念のみの無鉄砲や無計画では支持が集まらず、ましてや他人まかせでは成功はおぼつかず、失敗しないためには深謀遠慮が不可欠であり、多数派工作も抜かりなく、機運を醸成して、変革後の青写真を描いて、多くの人が幸せになるように思わせた上で断行し、さらには表向きだけでも「法」に反しない精神が必要なように思えます。