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源義経(1159~1189)終焉の地と伝えられる北上川に面した丘陵地の高館には、天和3年(1683)に仙台藩主・伊達綱村が義経をしのんで建立した義経堂があり、元禄2年(1689)旧暦5月13日に俳諧師・松尾芭蕉(1644~1694)が門人・曽良(1649~1710)をともなって平泉を訪れ、高館から眼下に広がる北上川の流れや夏草の繁るさま、遠くに連なる山々を眺め、100年にわたって栄華を極めた奥州藤原氏の盛衰や、みちのくに追い詰められて散華した源義経に思いをめぐらせて、しばし涙にくれたのち、俳句を詠みました。
奥の細道・平泉の書き出しには、唐の小説家・沈既済(750?~800?)の「枕中記」の故事、邯鄲の夢を踏まえて、藤原三代の栄華を「一睡のうち」と表現し、かつての館の跡は田んぼや野原になり果てたさまや、義経を守ろうと戦った選りすぐりの家臣たちの功名も一時のものであって、いまでは草に覆われてしのぶばかりになっているのを見て、「国破山河在 城春草木深」という唐の詩人・杜甫(710~770)の「春望」の一節が去来し、それらを踏まえた上で一句ひねりましたが、芭蕉のこの一句が時代を超えて、いまもなお読まれつづけ、日本で中卒程度以上の教育を受けた人々の胸のうちに刻みつけられているのには、俳句としての最高傑作のひとつというばかりでなく、人生の中で、折に触れこのような感慨を抱く場面に遭遇することでもあり、選び抜かれ、磨き抜かれた言葉のひとつひとつが誰しもの頭の中で具体的なイメージを描けることで、似たような物事に対して、ふと胸の底から浮かび上がってくるのであって、語感やリズム感に加えて、含蓄が深い上に、余韻も心地よく、これ以上に研ぎ澄ませることのできない17音と思えます。
この句の奥底には、日本の四季が脈々と流れていて、人間と自然との関わり合い、人間の所業もしょせんは自然の一部であって、文明や文化などといったところで、自然の流れの中ではかりそめにしか過ぎず、悠久の時の流れは無常であって、諦観していながらも、夢の中身については、立派であると肯定し、偉業であると評価しているように受け取れますが、山河さえ残っていれば、再び人間どもは立ち上がり、復興し、栄華を極めることもでき、この身は衰え、滅びるとも、人は輪廻を繰り返し、むかしがあったように、未来もあり、振り返ってみれば、すべては一瞬の夢のようであったと思える瞬間もあるのかもしれません。
芸術作品に限らず、すべての創作活動は、無から何かを生み出すということはあり得ず、松尾芭蕉も、たくさんの古典を読み込み、森羅万象に注意を払い、理解し、咀嚼し、すべてを自分のうちに取り込んで、消化した上で、作品として昇華させる際には、自分の五感を最大限に研ぎ澄ませ、降りてきた言葉には、踏まえている学識や知見に本質や真髄のみしか残されていないため、ものまねや受け売りにはならず、さらには、わかりやすい言葉を適切に配置し、読む者の頭の中に明確なイメージが作り上げられ、実際の暮らしの場でも思わず浮かんでくるような普遍性を持っていることが、まさに「オリジナリティ」であって、杜甫の「春望」にも宇宙の真理とも呼べる普遍性があり、生きた時代や国は違っても、互いに真理を見つめる者同士、肝胆相照らす仲というようにも思え、歴史に名を刻み込んだ人たちというのは、人間や世の中を凝視しつつ、自分の胸のうちも直視して、素直に表現できた人というようにも思えますが、そこにたどり着くためには、乗り越えるべき山河が険しくそびえていそうです。
伝統芸能などにおいては、まず師の模倣から始まるのであり、伝統から大きく逸脱することは許されず、反復訓練によって型を修得し、粛々と演じつづけたのち、ある時、伝統の呪縛から解き放たれた瞬間、独創性が生まれるのであって、基礎もなく、技術も熟練せず、何も身についていないうちから「オリジナリティ」を求めても、誰からも認められず、ただのひとりよがりであって、何事かに取り組み、自分なりの創造をするためには、まずはその分野の知識をたくさん身につけ、考えに考え抜いた先に、おぼろげに見えてくるもののように思えますが、偉人というのは、理屈を一切言わずやり遂げてしまっている人たちという気もして、骨の髄まで平々凡々の身の上としては、コマネズミがかごの中の回し車で必死に走り回っているように、同じところをくるくる回っているうちに老いさらばえるばかりで、そこには「オリジナリティ」は見出せないように思えます。