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夏目漱石風に書き出すならば、遺跡を歩きながらこう考えた、となるのかもしれませんが、偉大な夏目漱石ほどの知性も教養も学識も才能も、何ひとつとして足元どころか、足の裏にも及ばない身の上なので、考えることは虫けら程度で、イヌやネコよりは少しマシという水準であることを重々承知の上で、ごくたまに訪れる遺跡を歩きながら、「狩猟採集生活を送っていた人たちが、なぜ稲作を主とした農耕牧畜生活に移行したのか」を考え、自慢できるほどの学歴があるわけでもなく、大して知識のあるわけでもないスカスカの頭に浮かんできたことを、整理してみたいと思います。
一年半ほど前、東京の畏友と金沢で飲み歩き、一泊して、翌日、大阪の実家に向かう畏友に付き合って、大阪まで行く特急列車内で、「なぜ狩猟採集生活から農耕生活に移ったのか」について話をしたのですが、「日本においては、紀元前9世紀あたりに北九州に稲作が伝わってから、紀元後3世紀あたりには関東まで伝播したわけで、狩猟採集より、稲作に適していた気候・風土があったのではありませんか」と自説を述べたのに対し、「生活が大きく変化するには、何かもっと大きな理由があったのでは?」という問いかけには満足に答えられず、「確かにライフスタイルを変えるというのには、のっぴきならない理由があったとは考えられますが、アフリカで、樹上生活のサルがサバンナに下りたように、樹上では食えなくなったから、という劇的な変化が起こったとも考えにくいので、北九州の稲作を知った人たちが、あるところでは帰化人の指導の下に、あるところでは見よう見まねに近い状態で始めたのではないでしょうか」と答えたものの、納得された状態とはほど遠い反応で、学問的には底の浅さを露呈していたのは明らかでした。
そののち、ほんのわずかながらいくつかの遺跡を訪ね、狩猟採集の暮らしもそれほど日々の営みが切迫していたわけでも、食糧を求めて右往左往していたわけでもなく、竪穴式住居を作って定住していて、樹木の栽培なども行っていて、食うに困らない程度の備蓄をして、装飾品などを作るほどの暮らし向きであったことを知り、必ずしも稲作に移行しなければ、集団の維持が困難というほどの危機に瀕していたわけではなかったようですが、それを基にして考えると、狩猟採集の暮らしをしている人々と、農耕牧畜の暮らしを営む人々とは、別の文化であって、少なくとも、狩猟採集から「進化」して稲作に転じたのではなく、渡来人から技術が伝えられて、受け容れられた人々と、受け容れられない人々がいて、いち早く農耕社会に適応した人々は、その後の安定した収穫によって、人口が増え、富の蓄積とともに、軍事力なども備えるようになって、狩猟採集で暮らしている人たちを迫害・蹂躙して行ったのではないか、という思いがわき起こり、それが関東・東北まで稲作が伝播する1200年ほどの間に行われて、のちに台頭するヤマト王権によって、九州から東北南部にいたる支配につながって行ったように考えています。
まったく卑近な例を持ち出して、きわめて恐縮のいたりではあるのですが、これまでもいろいろとありがたい感慨をもたらせてくれた「パチンコでできた借金を原動力にして町中へ廃品回収に飛び出して行く」豊かで立派な暮らしをしていた人は、「借金で尻に火がつかないと仕事なんてする気が起きない」と本気で考えて実行していたのであり、はたから何を言われようと、誰もその考えに賛同しなくても、ライフスタイルや考え方を頑として変えないのが偉大なところであって、おそらくはそれが成功体験であり、変える必要もなく、本人の知らないところで、廃棄物に関する法律が厳格になり、法律違反を犯してまで金になる廃品を出してくれる事業所が激減し、さらには、スクラップ価格の低下や、単価のついていた廃品が無価値になるなどして、立ち行かなくなっても、本人の考え方は変わらず、「借金で尻に火をつけてぶっ飛んで行く」バイタリティあふれる行動を取ったところで、本人の思うほど収穫はなくとも、地道に働こう、などという意識は芽生えてこないのであって、法律なんて関係ねえ、出さない事業所はけしからん、もっと効率よく稼いでやるぞ、とこれまでの延長線上に考えるだけで、しみついた文化は、一朝一夕にぬぐい去れるものではないと思います。
社会はどんどん変化して行きますが、構成員であるひとりひとりはなかなか変化について行けず、それまでのこだわりが身を滅ぼすとしても、違う文化に大きく舵を切るのは困難で、柔軟に対応できた集団は勢力を伸ばし、対応できなかった集団は勢いを失うのはいにしえからの真理にも思え、もし、いま「狩猟採集の暮らしから、農耕の生活になったのはなんで?」と訊ねられたら、「必ずしも狩猟採集生活が劣っているとか遅れているとかでなくて、日本においては、稲作が伝わって、集団としての力を蓄えた北九州の人たちが、その文化をじわじわと伝播させて、結果として農耕生活に移行してしまったのであり、その力の及ばないところでは、江戸時代の終わりになっても狩猟採集生活をつづけていたのであって、伝播した土壌として、稲作に適合した気候・風土、さらには日本人の性分という特性があって、いろいろな弊害もある農耕生活が各地で定着したように考えますが、どうでしょうかねえ」と答えるしかないものの、それは、「ほんとうの理由などわかりません」と言っているのと同じようなものというようにも思えてきます。