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多賀城には、奈良時代から平安時代にかけ、陸奥国府や鎮守府が置かれて、大和朝廷の蝦夷制圧の拠点となり、軍事・政治・行政・文化の中心地でもありました。
弥生時代後期後半になると、大きな集落が小さな集落を従属させるなどして、西日本各地で有力な首長が力を持ち始め、首長は大型の墳丘墓に葬られるようになり、さらに時代が下ると、畿内に有力な豪族が生まれ、前方後円墳が造営され始め、各地に同時多発的に広がり、350年に渡って造られることになりますが、日本史の教科書などでは、畿内のヤマト王権の支配が広まって行くと説明されているものの、果たして地方の有力な首長が従属していたのか、はなはだ疑問であり、3世紀中頃に造られ、最古級とされている箸墓古墳を始まりとして、前方後円墳が北海道と北東北、沖縄を除く日本各地に広まったことだけで、ヤマト王権の支配が広まったと考えるのには無理があるように感じ、それをそのまま鵜呑みにすることはできないと考えています。
前方後円墳が造営される以前には、例えば出雲や越前では、四隅突出型の方墳が集落から見える場所に造営されていて、前方後円墳も、人里離れた場所ではなく、人の行き来の多いところや常日頃接するところに造られていて、墳墓を造営するにも集落総出で数年かけて行うような大がかりな工事であって、これを権力者や首長からの命令で作業に当たったとは考えにくく、集落内には、どうしても造らなければならない自発的な動機があったはずで、亡くなった首長は、死後もこの集落を護りつづけてくれるという強い思いを共有し、共通認識か共同幻想がなければ、食べることに直結しない労働に労力や時間を割けなかったのではないか、というように考えていて、具体的には、現世の農耕や祭祀については、引き継いだ首長が担当し、自然の脅威であるとか、予期せぬ出来事であるとか、人智を超えた現象については亡くなった首長が見守ってくれているというよりどころや安心感が得られ、まさにそれこそが神であり、常に心の支えとなっていて、崇める対象は暮らしの中にとけ込んでいたようにも思えます。
古墳時代のヤマト王権は、支配というよりは、軍事や物流、交易などでゆるやかな同盟を結んでいて、ヤマト王権が中央という意識は低く、地方の首長よりも、有力な首長が複数いた分、経済力や軍事力が強く、文化の面で進んでいたために、影響を与える側であって、地方の首長と人と人との結びつきを基盤に情報がもたらされ、地方の側が受け容れて行ったと考えていますが、そこには、地方ごとのもともとの文化の枠組みがあって、わりと似通っていて、わかりやすかったために、強制されなくても、取り入れられたのだろうと推測します。
ヤマト王権の支配が強まるのは、大化の改新以後であって、大陸の影響を受け、律令国家を造ろうとしたところからであり、そのために、東北には神亀元年(724)年に大野東人によって多賀城が築かれ、蝦夷制圧に乗り出し、飛鳥時代から侵略された側の蝦夷も抵抗をつづけたものの、大和朝廷は繰り返し大軍を送り込み、延暦21年(802)に、征夷大将軍坂上田村麻呂によって征服されたものの、大和朝廷の支配は、現在の岩手県と秋田県の中部付近を北限にとどまり、蝦夷の文化は、奥州藤原氏の支配が東北全域に及ぶまでつづくこととなりましたが、やはり固有の文化というのは、国家権力によってあっさりと捨て去ることができるような根の浅いものではなく、人としての存在そのものにかかわってくるのであって、人の営みはよほどのことがない限り根本からは覆らず、変わるためには、外圧と長い年月が必要なのであって、国づくりに挑んだ大和朝廷にしてみれば、自らの正統性を津々浦々まで浸透させるには、地方ごとに神がいてもらってはきわめて不都合であり、地方の神になり代わって、新しい神話を創り出す必要があったわけで、これもまた長い年月をかけて刷り込んで行く努力をひたすらつづけたものと思われます。