


阿弖流為については、歌舞伎やタカラヅカなどの演目にも取り上げられているものの、「続日本紀」では、延暦8年(789)に巣伏村での戦いで朝廷軍に大勝した蝦夷の指導者として記され、「日本紀略」では、延暦21年(802)に母礼とともに征夷大将軍・坂上田村麻呂の下に降伏し、平安京へと上り、処刑されたと記されているだけで、いずれも朝廷側の記録である上に、資料として非常に乏しく、阿弖流為の生まれ育ち、人間像などは想像するほかなく、わからないことだらけであっても、坂上田村麻呂に「胆沢へ赦免して統治にあたらせよ」と政府に進言させるほど、高潔で有能な人物であったことは間違いなさそうです。
蝦夷は朝廷と対立し、戦力では劣っていても、戦術に勝っていたため、坂上田村麻呂は一計を案じ、長期戦の構えで臨み、胆沢城を築いて、稲作をしながら蝦夷たちと交流し、寝返る者や同調する者を受け入れて、徐々に蝦夷を追い詰めて行ったとする説もあるようですが、蝦夷は土器や鉄器を持ち、稲作を行い、コメやムギを食べていた跡が遺跡から出てきているそうなので、坂上田村麻呂がくる前から稲作をしていたと考えられ、おそらくは朝廷側の役人や兵士は蝦夷を見下していて、同化することなどはなかったと思われるので、降伏後はつらい立場に陥ってしまったものと想像されます。
平安後期、平泉の地に、後三年の役(1083~1086)で権力を手中にした陸奥の豪族・藤原清衡を父とし、子の基衡、孫の秀衡の三代、およそ100年にわたって築き上げた文化の大輪の華は、大谷金山などから産出される黄金と、一戸や二戸などから産出される軍馬が奥州藤原氏を経済的に支え、福島の白河の関から青森の外ヶ浜まで、現在の東北地方一帯に勢力が及び、都に並ぶほどの栄華を極めたものの、源頼朝に追い詰められた四代目泰衡によって平泉に火が放たれ、灰燼に帰しました。
奥州藤原氏初代清衡が造営し、参詣する人々に極楽を見る思いをさせた平泉・中尊寺は、藤原氏滅亡後もたび重なる火災によって多くの堂宇が焼失しながらも、金色堂だけは創建当時のまま残り、藤原氏四代の遺体が納められていますが、恒久平和を願う浄土思想の理想郷をつくり上げ、いまも痕跡をとどめる平泉文化の真髄は、争いのない世の中を祈りつづけるという心のありようにあるように思えます。