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大村護国神社の鳥居をくぐり、日の池と月の池を見て、低い石垣が積まれた間に築かれた石のきざはしを登りきると、一気に視界が開け、突き当たりの斜面にはいくつもの石が立てられ、組まれて、一見取りとめないようでありながら、山河から流れ落ちる滝を中心にした物語をつむぎ、勇壮な石のつらなりが、どことなく祈りを捧げているようにも見えました。
近づいてみると、一番上に組まれた三尊石を基本にして、中央のななめに流れる枯滝を囲むようにいくつもの三尊石が組まれていて、向かって左の端には急峻な枯滝があり、説明板によると、幅50mほどの山肌に、400ほどの石が立てられているようでした。
肥前国大村藩第4代藩主大村純長(1636~1706)によって、承応元年(1652)に建立された円融寺は、第3代藩主大村純信が慶安3年(1650)に世継ぎがないまま33歳で早世、無嗣断絶の危機に直面したものの、徳川家光の裁可により、純信の正室の父の勘定奉行伊丹勝長の四男の純長を末期養子として跡目相続が許され、襲封することができた恩義に報いるため、徳川家の歴代将軍の位牌を祀ることを願い出て、特別に許可が出た寺で、波佐見出身で紀州に武者修行に出た際に知った捕鯨を生業とし、九州で最初に鯨組を組んで対馬海峡の鯨を追って、百頭ほどを捕まえたことにより莫大な富を築いた深澤義太夫が寄進したそうです。
日本で最初のキリシタン大名大村純忠(1533~1587)を藩祖とし、純忠の長男・初代大村藩主大村喜前(1569~1616)もドン・サンチョの洗礼名を持つキリシタンであったものの、バテレン追放令が天正15年(1587)に九州平定後の豊臣秀吉から出されると、ただちに領内から宣教師を追放、自らも慶長7年(1602)に日蓮宗に改宗すると、キリシタンに対し激しい弾圧を加え、駆逐、元和2年(1616)に迫害されたキリスト教徒に毒殺された父を継いだ第2代藩主大村純頼(1592~1619)もまたキリシタンを弾圧し、元和5年(1619)に28歳で急死、このとき純信(1618~1650)はまだ2歳、世継ぎが幼少のため改易の危機に瀕しながらも、家臣の奔走により第3代藩主として襲封を認められたにもかかわらず、33歳で早世、再び存続の危機に陥ってしまいました。
永禄6年(1563)に大村純忠が重臣らとともに洗礼を受けたことから領内にキリスト教が広まり、各地に教会が作られるなど領民に浸透したキリスト教を、公儀からの達しとはいえ、禁止するというのはあまりにも無理難題であり、迫害する方にしても職務として遂行するほかないとはいえ、あまりにもしのびなく、キリシタン弾圧と藩主の早世との因果関係は浅からぬものもあり、嫡流ではなかった第4代藩主としては、一切の悪縁を断ち切る思いもあり、表向きは徳川家の恩義に報いるための円融寺の建立であったとしても、殉教した人々への鎮魂もこめていたのでしょうが、慶長18年(1613)の幕府の禁教令から44年も経った明暦3年(1657)に大村藩の郡村の大勢の隠れキリシタンが処罰された「郡崩れ」が発生するわけで、信仰には法律などまったく無意味であり、心のありようは権力者によって統制されるはずもなく、団結して蜂起するほどの激しさを持たず、心のよりどころとなって、穏やかに生活に深く根ざしていたのは、いかにも日本人のメンタリティらしいという気がしてきます。