


玄奘三蔵は、隋の時代に生を受け、10歳の時に父が亡くなったため、出家して洛陽にいた次兄に引き取られましたが、13歳の時に僧に選ばれ、法名を玄奘とし、25歳を過ぎるまで中国各地を巡歴し、修行の深まりとともに、高僧の教えに疑念を抱くようになり、漢訳経典に答えを求めても疑問は解けず、各地の高僧に答えを求めても自説を述べるばかりで、さらに疑問は深まり、教義の原典に触れるほかないと思い立ち、天竺に赴き、高僧と対峙して、直接解義を得ようと決意、唐の役人に何度も出国許可を求めるものの、当時は鎖国政策を採っていて果たせず、629年、27歳にして修行への思いが断ち難く、瑜伽師地論と唯識論の奥義を極めるため、国禁を犯して密出国しました。
過酷な道のりを経て、3年かけて天竺へたどり着き、ナーランダー寺院で戒賢論師に師事して唯識教学を学び、その後、西域各地の仏跡を訪ね歩く修行ののち、仏像・仏舎利のほか、梵語の仏経原典657部を携えて唐に戻ってきたのは645年、密出国した時とは違い、時の皇帝・太宗が国境まで迎えの使者を遣わせるほどで、皇帝からの政治への参画の要請は断ったものの、皇帝からの手厚い支援を受けて仏典の漢訳に打ち込み、現在、日本で読誦される「般若心経」の基となったのは「大般若経」でもあり、玄奘三蔵以前の仏典は「旧訳」と呼ばれ、玄奘三蔵以後の仏典は「新訳」と呼ばれて、唐代の仏教興隆に大きく寄与しました。
大雁塔は、のちの則天武后の時代に十層に改造されたものの、戦乱などで上部が崩壊し、現在では七層になり、内部の木製のらせん階段で七階まで上ることができました。
玄奘三蔵ゆかりの大慈恩寺境内に立つ大雁塔からは、四方に発展著しい西安の街が見渡せ、地平線には高層ビルが立ち並んでいましたが、霞んでいる地平線の向こうには、玄奘三蔵も難儀しながら踏破したタクラマカン砂漠が広がり、ひたすら歩いて行けば、そのかなたにはローマへと通じているはずであり、往来した幾多の人々のはるかなる旅路を思うと、さまざまな国の人々が交易を通じて交わり、文化が伝播し、古い枠組みの中に取り入れて、新しい形の文化が生まれ、栄枯盛衰があり、喜びも悲しみもすべて飲み込んできた西安の街並と悠久の時の流れには気が遠くなりそうで、街並は変わろうとも、いにしえより変わらない人の営みが絶えることなくつづけられ、これからもつづけられて行くことに、古都の持つとてつもないエネルギーと刻み込まれた歴史には、永遠の輝きがあるようにも思えてきました。