


1936年12月12日、東北軍総指揮官・張学良(1901~2001)が120名の部隊を率いて、国民政府行政院長・蒋介石(1887~1975)が滞在する華清池を襲撃、裏山へ逃走し、岩場に隠れていた蒋介石を見つけ出すと、西安へと連れて行き、拘束、南京政府の改組や内戦の停止、政治犯の釈放などの8項目の要求を突きつけたものの、蒋介石は強硬な態度で拒絶したと伝わっています。
国民党軍に敗れた毛沢東(1893~1976)率いる紅軍は、中華ソビエト共和国の中心・瑞金を出て、1934年の10月から国民党軍と戦いながら、ソ連国境に近い延安まで徒歩で12500kmを移動し、たどり着いた時には10万人いた兵力を数千人程度にまで減らして、壊滅寸前の危機的状況で、数次に渡る攻撃で紅軍を追い詰めてきた蒋介石にしてみれば、殲滅まで「最後の5分間」と認識していたのも無理もないところとはいえ、1936年10月に蒋介石が延安の総攻撃を将軍たちに命令したものの、張学良や第17路軍総指揮・楊虎城(1893~1949)らは従わず、蒋介石の知らないうちに密約が結ばれていて、国共合作と抗日戦線のシナリオが吹き込まれていたために、クーデターの機会をうかがっていたものと思われます。
中国共産党からは周恩来(1898~1976)らが駆けつけ、上海からは夫人の宋美齢(1897~2003)も駆けつけ、1924年の国共協力当時、黄埔軍官学校で蔣介石と面識のあった周恩来の説得により、蒋介石は態度を軟化させますが、おそらく周恩来はソ連で人質になっている長男蒋経国の釈放や抗日戦線勝利後の青写真を語って聞かせ、当然ながら蒋介石自身の生命の保証もされたことでしょうし、宋美齢は自らの意見とともに姉の宋慶齢(1893~1981)の意向も伝え、南京へ戻った蒋介石は、国民党の方針を転換することになりました。
もし西安事件が起こっていなければ、中国共産党は勢力を弱め、盧溝橋事件も起こらなかった可能性もありますが、やはり歴史を動かずことができるのは、冷徹に状況を見極めて、自らの利益を最大限に引き上げようと深謀遠慮と権謀術数の限りを尽くせる怪物であり、すべてを詠み切り、着々と手を打ち、利用できるものはとことん利用したスターリン(1878~1953)ほどの傑出した人物を敵に回しては、甘い見通しで進出した日本軍には、勝ち目はなかったように思えてきます。