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文久2年(1862)に起きた薩摩藩尊王派が鎮撫された「寺田屋騒動」と、慶応2年(1866)に起きた坂本龍馬らが伏見奉行の捕り方によって襲撃された「寺田屋遭難」のふたつの寺田屋事件によって有名な寺田屋は、京都・伏見の船宿、現在は、鳥羽・伏見の戦いのあとに再建された趣のある建物が往時の雰囲気を伝えています。
伏見は、豊臣秀吉によって伏見城の城下町として町割が行われた文禄3年(1594)から開発が進み始め、宇治川の治水や流路の大幅な変更を前田利家らに命じて行い、宇治川と濠川を結ぶ形で港が造られたことから伏見は交通の要衝となり、京の伏見と大坂の八軒家を結び、三十石船が行き来する舟運の大動脈となりました。
さらに、慶長年間(1596~1615)には、角倉了以・素庵父子により、伏見と京都の中心部とを結ぶ高瀬川が開削されたことにより、港としての重要度は増し、幕府によって伝馬所が置かれ、本陣や脇本陣、旅籠も軒を連ね、港町、宿場町として隆盛を誇りました。
明治天皇が即位したのは新暦の1868年1月25日、旧暦では慶応4年1月1日・明治元年1月1日で、旧暦の1月3日に勃発した鳥羽・伏見の戦いでは、寺田屋周辺は一面焼け野原となり、濠川にかかる京橋のたもとには「伏見口の戦い激戦地跡」の石碑が立ち、かつての戦乱の跡としての歴史を伝えていますが、現在では当然ながら戦闘があったと思われるような名残りは一切なく、精一杯想像をして、面影をしのぶほかないにしても、現場に立ってみるとそこはかとなく往時の空気をかすかに感じることができ、坂本龍馬をはじめとする志士たちの幕末から維新へと駆け抜けた熱い思いについてしばし黙考、時代の激流の中で、行動せざるを得なかった人々は、信念を貫き通し、命懸けで本懐を遂げた壮絶な人生には、あさはかな現代人としては少しばかりのうらやましささえ感じられてきます。
かつて京と大坂を行き来する船が停泊していた濠川の寺田屋浜には、坂本龍馬とお龍の銅像が立ち、「愛の旅路像」などといささか気恥ずかしくなるような名称がつけられているものの、この地から薩摩へと船出して行ったのは事実であり、そういった他愛のないロマンスがもてはやされる時代になったことを喜ぶべきなのかもしれません。