


義民・佐倉宗吾、本名は木内惣五郎、寛永から承応年間にかけてつづいた飢饉によって、過酷な生活を強いられていた農民たちが年貢米を代官所に納めに行くと、1割2分余計に入る枡で計り直され、不足分を徴収され、さらには麦や大豆、小豆なども徴税の対象になった上、挙句の果てに鍬や天秤棒にまで課税されるというあまりの重税に、夜逃げする者、飢え死にする者など多数あり、承応元年(1652)の記録には、つぶれた家380軒、夜逃げした者1730人、檀家を失ったための廃寺11寺とあり、窮状を想像するに、ただただ目を覆いたくなるような悲惨な状況がうかがい知れます。
当然、名主たちも窮状を鑑み、藩主に門訴するものの投獄されてしまったり、江戸に上って老中に訴えても却下されてしまったりしたため、ついに木内惣五郎は直訴を決意し、天下の御法度は百も承知の上で、四代将軍家綱に上野寛永寺で直訴を敢行、松平伊豆守の計らいにより類書は取り上げられ、藩主は咎めを受け配流となり、農民たちは悪政から解放されたものの、木内惣五郎とその家族は磔刑に処され、承応2年、刑場の露と消えました。
嘉永4年(1851)に佐倉宗吾の伝説に材を取った歌舞伎の「東山桜荘子」が上演されると、大衆の支持を受け大当たりとなり、その評判は日本中に響き渡るほどであり、自らを犠牲にして多くの民を救った義民・佐倉宗吾の物語は、まさに当時の民衆の心情に合致して幅広く受け容れられ、全国各地の農村では、百姓一揆が数多く発生し、義民を顕彰する活動も活発化し、佐倉義民伝は歌舞伎にとどまらず、講談や浪曲でも語られ始め、明治以降、自由民権運動家なども取り上げて、主張の先駆者として祭り上げ、昭和恐慌であったり、戦後改革であったり、ことあるごとに新しい解釈で取り上げられて、苛政により抑圧され、どうにかしようと努力するものの理不尽にもはねつけられてしまい、禁を破ってでも時の権力者に直接訴えて、窮状を打開するも、その当人は処刑されてしまうという結末は、日本人のメンタリティに最も合ったストーリーであって、一身を捧げた人に対して感謝の念を持ちつづけるのも日本人の美徳であり、圧政の張本人をいつまでも責め立てないのも日本人の寛容さが現れているように思えます。
法は法であり、厳守するのは社会の秩序の維持のため最も重要ではあるものの、権力者がその力にまかせて恣にむさぼるのは、法に定めがなくても人の道から大きくはずれていて、それを正すのは志あるほんの一部の人たちでしかなく、多くの民衆は自分の身さえどうにかなればいいと考えているのが実状で、それだからこそ社会の不正に身を捨てて立ち向かう人が尊いのであって、助けられた民衆は胸をなでおろしながら、時折、思い出して感謝するほかないようにも思えてきます。