「ネットで検索すれば東大卒と同じ」とは金沢廃品回収業界の重鎮の名言で、聞かされたその場で否定し、「ネットで調べてわかったつもりになっても、踏まえている知識の量が違うのだから、見解とか考察とか導き出せないし、何かえらそうに知ったかぶりをして上から目線でコメントしたとしても、あさはかなのは見え透いているし、ネットで調べたような情報はすぐに忘れ去ってしまい、何の役にも立たない」とつけ加えたところ、自分がいかに学力や知識、経験が豊かで「踏まえている」かを力説し、趣味を通して医師や弁護士といった一般に頭脳明晰であると思われている職業の人たちと「マブダチ」であり、才能や博識ぶりを認められているかを語った上で、「そやろ、そやろ」と何度も同意を求めてくるのがあまりにも鬱陶しくて、お互いに「話にならないヤツ」として不快感だけが残りましたが、その金沢廃品回収業界の重鎮のけだし名言を換骨奪胎して、「競輪・競馬などを語らせたら東大卒と同じ」と思えるような人とたまに出食わすことがあり、「恐ろしく記憶力のいい人だな」と感心したり、「人生の酸いも辛いも嘗め尽くしてきた人なのだな」と尊敬したりして、公営競技が好きでのめり込んでいた人の話はとても熱量が高く、面白いものであっても、決して押しつけがましいわけではなく、通常、時折合いの手をはさみながら聞き入って、楽しませてもらっています。
以前、数人で大宮で忘年会をした折、入口にビニールの風除けがかかり、長い木製のテーブルの両側に背もたれのない木製の椅子が置いてあって、客がすし詰めになっていて、どこからどこまでがひとつのグループなのか見分けのつかない居酒屋に入ったことがあり、そういうつくりなので、酒や料理などの料金は安めに抑えてある気さくで庶民的な雰囲気の中、かたわらに赤のマジックで数字を書き入れたスポーツ新聞を置き、すでにかなりできあがっているという風の初老の男の人がひとりで酒を呑んでいて、ジャンバーをはおって、コワモテではないにしても、銀行や郵便局の窓口にはいなさそうなタイプで、どちらかというと手に職をつけているといった風で、時々、こちらを見ながら、何か話しかけたそうにしていて、ふと目が合った瞬間を逃さず、「しかし太田真一もダメだな」と言葉を投げかけてきて、「太田真一」とは大宮をホームにしている一流とも呼べる競輪選手であることくらいは知っていたので、「そうですかねえ」などとうかつに答えた瞬間からとめどなく競輪の思い出話があふれ出してきて、太田真一がいかなる理由で「ダメ」なのか説明責任も果たさないまま、「びわこの宮杯でよぉ、中野のグランドスラムがかかっていたのに滝澤がちょい差し決めあがってよぉ」などと唐突に古い大レースの結果などを語り始め、「中野-滝澤で大勝負行ってたんだけどさぁ、ウラ食っちゃってよぉ」などと嘆き、「裏目千両っていうけど、2-3で1990円もつきあがって。ちょっくら押さえておくんだったよ」と悔恨も差し挟んだあと、「でも滝澤っていいヤツだよな、競輪のおかげでミス日本のきれいな嫁さんきてくれたし、金もそこそこ稼げたしって、レース後のインタビューで大泣きしちゃってよぉ」などと、まるで昨日の出来事のように熱く語る姿には、どことなく競輪への愛も感じ、競輪を通しての悲喜こもごももあり、おそらくは給料の何分の一かをつぎ込んでしまっていたとしても、長い人生の彩りのひとつとして、胸のうちには、満天の星空のようにきらめきを放っているものと想像できます。
公営競技のファンには、馬や騎手、選手の名前を詳細に記憶している人が多く、場合によっては、レース名やレース内容、出目、配当、あるいは天候などについても明確に覚えていて、すらすらと口から出てくるのには驚かされ、うならされ、時に笑わせられて、それだけの記憶力や当意即妙の語り口があるのであれば、何をやっても成功したようにも思え、それこそ東京大学の入学試験に活用したり、科学でも文学でもノーベル賞級の働きができたりしたのではないかとすら考えられて、学校では神童や才子ともてはやされ、会社に行けばその人がいなければ成り立たないくらいの能力を発揮していそうなものですが、その手の人の割合は想像するほど高くはないように思われ、職場ではそれほど目覚しい活躍もせず、給料分くらいはとりあえず働き、レース場や近くの酒場で、同好の士と語り合う時にのみ、眠っていた才能が花開き、スーパーコンピュータ並みの頭脳が稼動し始め、シナプスが次から次へと結びつき、同行の士から刺激を受けることでさらに記憶が呼び覚まされて、脳のひだに刻み込まれた画像がエンドルフィンとともに出っ放しになって、至福のひとときが過ぎて行くのかもしれません。
ギャンブルの魅力とは、賭け金が増えて戻ってくるという実益の面ばかりでなく、競馬や競輪などの公営競技であれば、翌日の出走表を見て、あれこれ考え、頭の中でいくつものレースが展開される予想であったり、麻雀やポーカー、サイコロなどの相対して勝負をするゲームの駆け引きであったり、パチンコで大当たりをして機械が光輝いたりするなどの面白さが加わり、実際に現金を張って勝負に集中して打ち込むことで緊張感が異様に高まり、勝負に勝った時の歓喜により、ドーパミンが一気に噴出して、天下を取ったかのような幸福感を味わえるのが至高のひとときであり、その刹那を求めて、ギャンブル遍歴の旅路はつづいて行き、日々の結果に一喜一憂し、時に絶望の淵に立ち、時に悟りの境地に達し、ギャンブルもまた、自分の姿を映す鏡であることにふと気づいたり、成功や失敗の理由が人生と重なることに思いが至ったりします。
過ぎ去った日々は戻らず、ただ思い出すのみ、費やした金銭は戻らず、ただ消え去ったのみですが、多くのギャンブラーとの語らいで感じるのは、ギャンブルへの諦観をともなった愛情であり、わずかばかりの後悔の入り混じった哀愁であり、取り立てて自分を飾ろうとしたり、立派な人物に見せかけようとしたりしない「素」の表情や表現には、こころから共感し、「この人に幸多かれ」と祈るばかりです。