イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

大仏の造立を発願した豊臣秀吉により、天正16年(1588)から高野山の木食応其に造営に当たらせ、天正19年(1591)に立柱式が行われ、文禄2年(1593)に上棟、文禄4年(1595)に完成した大仏殿は、現在の方広寺、豊国神社から、京都国立博物館、妙法院、知積院を含み、三十三間堂の南側にある太閤塀や南大門までに至る広大な敷地で、造立した木造の大仏は東大寺の大仏をしのぐ6丈3尺(約19m)あり、南北十五間(約27m)東西二十一間(約38m)の経堂で秀吉が祖父母の供養のために千僧供養会を行い、豊臣家滅亡まで毎月つづけられたそうですが、この大仏殿落慶のあたりが豊臣家の絶頂であったようです。
秀吉の造立した大仏殿は、現在は大幅に規模が縮小され、方広寺には本堂と鐘楼があるのみですが、方広寺鐘銘事件としてあまりにも有名な梵鐘は残されていて、実際に目の当たりにすると、さまざまな歴史の場面が浮かんできて、ありきたりながら、感無量でした。
秀吉死去のあと徳川家康は急速に台頭し、関ヶ原の戦い以後、徳川家と豊臣家は表面的には対等に共存していたものの、家康は征夷大将軍につき、2年後に秀忠に譲り、官位も含めて豊臣家を逆転し、豊臣家を一大名として見るようになったとはいえ、豊臣家は、秀頼が成人すれば家康が政権を返してくれるはずという思い込みがあって、甘い希望的観測でありながらも、摂津・河内・和泉を治め、豊臣恩顧の有力大名もいることから、一大名として臣従するのではなく、いずれ関白として徳川家とも対等に渡り合えるというもくろみがあったと思われます。
豊臣家にすれば、一大名として生き残るのも選択肢のひとつではあったにせよ、カリスマが一代で築き上げた帝国を、むざむざ明け渡すのも直系の二代目としては不本意であり、忸怩たる思いもあったでしょうが、乾坤一擲、雌雄を決する戦いに打って出るにも手駒不足は明白であり、先代の築いた莫大な遺産を食いつぶしながら、大仏殿造立など先代の夢のつづきをなぞる日々が過ぎて行き、徳川家の出方次第という無力な立場をうらんでいたかもしれません。
徳川家康は、全身全霊を傾けてことにのぞみ、ありとあらゆる情報をかき集め、分析し、先の先まで読み切り、方広寺の鐘銘をきっかけに一気に勝負に打って出て、豊臣家には徳川家を上回る着地点を思い描けぬまま、滅びの道を進んでしまいますが、「何が何でも徳川を打ち負かす」であるとか、「なりふり構わず足軽に落ちぶれても生き残る」であるとか、明確な身の振り方を決断できなかったところに二代目のひ弱さがあるような気がします。