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予讃線の終着駅、頭端式2面3線の宇和島駅の特急列車が発着する1番ホームの改札口の脇に、緑の公衆電話ボックスがあり、貼り付けられていた説明を読んでみると、宇和島市出身の歌手・松山恵子(1937~2006)が平成6年(2000)11月に、宇和島市出身の国文学者・大和田建樹(1857~1910)が作詞した鉄道唱歌の100周年記念イベントの一環として、宇和島駅構内で松山恵子コンサートを催したことにより、大ヒット曲「お別れ公衆電話」にちなんで設置されたようです。
松山恵子がヒットを飛ばしていた昭和30年代は、日本が終戦後の焼け跡から立ち直りつつあり、経済的に成長をつづけて輝いていた時代で、余裕を持ち始めた人々の心をとらえた歌謡曲は身近な娯楽として人気を博し、老若男女を熱狂させ、レコードはプレーヤーの普及とともに爆発的な売れ行きを見せ、テレビやラジオから流れてくる楽曲は、誰しもが知っていて口ずさめるまさに流行歌であって、歌謡界は黄金期を迎え、昭和40年代にかけて全盛を謳歌していたように思えます。
松山恵子の絶頂期は残念ながら見ることはできませんでしたが、歌謡番組の多かったテレビやラジオによって楽曲は聞いたことがあり、懐メロ番組でも姿を見たことがあり、亡くなる直前までステージに立っていたそうで、NHKの歌番組にもたびたび出演していて、自分のことを「お恵ちゃん」と呼ぶ若作りの元気なベテラン歌手だな、という印象を持っていて、出演順もトリに近いところで歌うことも多く、客席から掛け声がかかるなど、ファンに支持されている雰囲気も伝わってきて、いつものように生放送の歌番組をラジオで聞いていた時、松山恵子が本番中に歌詞を忘れ、オーケストラの演奏だけが流れたことがあり、歌詞を忘れる歌手はたまにいるので、どういう風にその場を取り繕うのかと気にかけていたところ、演奏が終わると、すぐに謝り始め、司会者がきてとりなしても誤りつづけ、痛々しいほどで、最後に、「お恵ちゃん、もうNHKには出してもらえないかも知れません」と言い、その時は、いまどき、流行していない持ち歌の歌手を呼んできて編成する歌番組はNHKくらいでしかやらないので、NHKから声がかからないとツラいのかも、と無責任なことを考えてしまいましたが、それから数ヶ月くらいして、歌手・松山恵子の訃報を聞き、真っ先に思い浮かべたのは、歌番組での気の毒なほどの謝りようでした。
生まれてすぐに東京の千住に引っ越し、終戦後の食糧難により父親の故郷の宇和島市に転居、中学2年の時に「日本コロンビア全国歌謡コンクール」で入賞、家族で上阪し、歌謡教室に通い、「日本マーキュリーレコード全国歌謡コンクール」で優勝したことをきっかけにデビューし、昭和34年リリースの「十九の浮草」がヒットして流行歌手の仲間入りを果たし、次々にヒットを飛ばして、紅白歌合戦にも7年連続で出場するなど活躍したものの、昭和44年に瀕死の重傷を負う交通事故に遭い、このときの輸血がもとでC型肝炎にかかるという不運にも見舞われ、それでも歌の道をあきらめず、復帰して、平成元年の紅白歌合戦に26年ぶりに出場を果たし、平成7年に日本レコード大賞功労賞を受け、亡くなる直前までテレビやラジオに出演し、歌を吹き込んで新曲を出そうとしていたそうです。
見た目はきらびやかな芸能界でも、その中で長年にわたって人気を持続するというのは想像を絶する厳しさであり、亡くなるまで歌手でいられただけでもものすごい金字塔であり、何曲もの大ヒット曲を残し、歌謡史にその名を刻み、これからも、折に触れ歌い継がれる楽曲とともに、歌う姿もよみがえることでしょうが、そのかげには、同い年の美空ひばりの影響を受けてレッスンに通い始め、歌謡教室が停電になった時でもひとりで歌っていたという努力を重ね、コンクールを足がかりに世に出ると、歌を愛し、歌に人生を賭け、歌とともに歩んだ女の一生をまっとうしたと思われて、月日が流れ、人と人とのコミュニケーションの方法も変わり、公衆電話ボックスから公衆電話が撤去され、携帯電話専用ボックスとどうでもいいような名称に変えられてしまったとしても、好きな男から立ち去る前に公衆電話から別れの電話をかけなくては気がすまない女心の未練はわからなくもなく、これが携帯電話のメールで、文字と人文字が送信されてくるだけだとしたら、歌にもドラマにもならず、ただやりきれなさのみが残るような気がして、昭和の不便な時代の情感も伝わりにくい世の中になったことを嘆く年寄りになりそうです。