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上方浮世絵館は、大阪難波、法善寺の門前にあり、土地柄、大きな建物ではなく、2階と3階の狭いフロアに浮世絵が30点ほど展示されている珠玉の美術館でした。
浮世絵の始まりは、菱川師宣(1618~1694)にさかのぼり、房州に生まれ、若くして江戸に上り、幕府や朝廷の御用絵師に技法を学んだのち、墨摺による版本の挿絵を無記名で手がけ、その後、明暦の大火(1657)ののちあたりから挿絵師として人気が沸騰、その挿絵から独立した墨摺の一枚絵を大量に印刷して安価で販売し、独自の様式の版画・浮世絵が誕生し、庶民に受け入れられ発展、そのほか肉筆浮世絵も精力的に描き、浮世絵の礎を築き、「浮世絵の始祖」として後進に大きな影響を与え、江戸中期になると、より豊かな色彩表現が求められるようになり、肉筆画では量産ができなかったため、版による彩色が行われるようになり、版元、絵師、彫師、摺師との共同作業が確立、絵師の版下絵の魅力のみならず、版元の企画力、彫師と摺師の精緻で卓越した技術によって生み出される多色刷りの浮世絵版画は、かけそば一杯程度の値段で売られる大衆向けの身近な美術品として、額に入れられて掲げられるのではなく、手にとって愛玩され、飽きたら襖の裏張りや包み紙などに転用され、絵画としては世界的にも類を見ない独特の展開を見せ、当時の学術的な書物は上方の問屋が独占的に扱っていて、江戸の店は上方の支店か上方資本であり、浮世絵版画は絵草紙問屋の領域で、江戸で作って販売する大衆娯楽本の地本を扱い、江戸一円の絵草紙屋に卸して、販売させ、いたるところに絵草紙屋があったことが、浮世絵人気を爆発させ、下支えしたようです。
江戸の浮世絵は、菱川派、鳥居派、歌川派、勝川派の流派が生まれ、美人画、役者絵、武者絵、芝居絵、花鳥画、名所絵、漫画、春画などさまざまな分野に及び、隆盛を誇ったのですが、上方の浮世絵は、大坂で作り始められたのが江戸時代後半から明治初期までとかなり遅れ、道頓堀にあった芝居小屋で演じられていた歌舞伎を題材にした役者絵がほとんどで、その理由としては、絵画は肉筆で描かれ、高価なために上流階級が楽しむものという伝統があり、美人画などは肉筆が主流であって、どうにか役者絵の浮世絵版画だけが大坂の庶民に受け入れられたようです。
上方浮世絵は、江戸のように華美ではなく、役者を理想化せず、ありのままに描く点に特徴があり、目力鋭く感情を持っていて、人間くささを残し、建前と体裁を重んじる江戸の文化と、やせ我慢せず本音で生きる上方の文化の違いでもあるようです。
東洲斎写楽は上方の出身ではないか、という説があり、流光斎如圭の絵と写楽の絵とが似ている、という研究者もいるようです。