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大坂城を造ったのは誰か、という質問を受けた時、「大林組」と答えるのは、現在もそびえ立つ昭和復興天守を施工した建設会社として、ウケを狙い過ぎるきらいはあったとしても的外れではなく、「豊臣秀吉」と答えるのは、織田信長の死後、清州会議で池田恒興に与えられたものの、すぐに美濃へ国替えになって、豊臣秀吉の領地となり、天下統一とともに、豊臣政権の本拠としての大坂城が強く植えつけられてしまっているため、大坂即ち豊臣家という連想が強く働き、パブロフの犬ばりの条件反射としては自然な流れであり、「徳川家康」と答えるのは、大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼし、幕府直轄の城として、徳川将軍家が歴代城主を兼ね、譜代大名の城代が預かったことを考慮すれば、あながち筋違いでもなく、「徳川秀忠」と答えるのは、家康没後、大坂を天領とし、大坂城修築工事を開始、豊臣家の造った石垣や堀をすべて破却し、全体に盛土した上に、新たに石垣を積んだため、豊臣大坂城は埋没、現在見られる石垣や堀などの遺構はすべて徳川大坂城のものであるから、多少の違和感があっても、「徳川秀忠」と答えるのが模範解答に近いのかもしれません。
もちろん、「豊臣秀吉」には強い思いが込められている場合が多く、とくに関西では否定的な意見を述べるには決死の覚悟でのぞまねばならず、在阪球団とともに、批判するのは御法度であり、「大坂城を造ったのは太閤はんに決まっとるやろ」とすごまれたら、「おっしゃる通りですね」と愛想笑いを浮かべるばかりであるのは明白です。
豊臣秀吉の造った大坂城を埋没させてしまったということは、徳川秀忠の造った大坂城は、秀吉の造った規模をはるかに凌駕してしまったということであり、これは「秀吉贔屓」にとっては我慢がならず、東西対抗戦に敗れた上、東軍の大将に乗り込まれ、蹂躙され、威光を見せつけられてしまったとは、許しがたく、断じて受け入れられない現実に違いありません。
「大坂城を造ったのは大林組やで」とおちゃらけて笑いを取る裏には、もちろん、事実よりも笑いが取れる視点を最重要視する文化も底流にあるものの、どこか厳しい現実を受け入れたくないという思いも少しばかり働き、軽く受け流して、「これくらいにしといたるわ」という余裕をかまして、問題点をずらしたまま、笑いのうちにカタルシスを落とし、明日への活力へとつなげて生き抜いて行くたくましさを感じます。
大坂城には重要文化財に指定されている門や櫓など見ごたえのあるものが多く、とくに石垣の巨石の数々には目を瞠り、「さすが徳川将軍家の天下普請」とうならされるばかりです。