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今治城は、慶長7年(1602)に藤堂高虎によって築城が始まり、三重の堀に海水を引き入れ、海から堀へ船で入ることができたり、大手門に初めて枡形虎口を設けたりと、新機軸を打ち出し、慶長9年に完成したとされています。
内堀と石垣は江戸時代のままのようですが、天守は昭和55年(1980)に鉄筋コンクリート造で建てられた5層6階の模擬天守、内部には、今治藩主ゆかりの武具や調度品などが展示されていました。
藤堂高虎は近江の出身で、羽柴秀長、豊臣秀吉、徳川家康などに仕え、幾多の戦功を挙げ、頭角を現し、秀吉の死後は家康を天下人と見込んで急接近し、関ヶ原の戦い以降は、徳川家康の側近として参謀役を務めました。
「渡り奉公人」として各地を流浪していた時、あまりの空腹に耐えかねて、三河吉田宿の餅屋のモチを無銭飲食し、主に正直に話して謝罪したところ、路銀まで渡されて、「国で親孝行しなさい」と諭されたという「出世の白餅」と題する講談、浪曲があり、のちに大名まで出世した高虎が恩返しをする物語になっていますが、若い時の苦労を糧として、艱難辛苦の末に功成り名遂げるのは日本人受けする人情話であり、「徂徠豆腐」という講談、浪曲、落語においても、貧苦にあえぐ荻生徂徠がなめくじ長屋に住み、多くの書物に囲まれて暮らしていながらも、食べ物を買う金がなく、行商の豆腐屋のトウフを全部平らげ、正直に話して謝罪したところ、豆腐屋も意気に感じて毎日食わせてやり、女房に怒られてからはオカラを食わせてやるようになるものの、徂徠が幕府に取り立てられ、出世すると、火事で店が焼けてしまった豆腐屋に新しい店を建てて恩返しをする話で、食うに困っていたとしても、学問に励みつづけ、その後、認められて重用されるというのも好まれるストーリーであり、無銭飲食をしたすべての者が立身出世するわけでないのは当然なのは言うまでもなく、そこまで追いつめられていても、自らを信じ、努力を重ね、全身全霊を傾けて道を極めたからこそ美談になるのであって、庶民にとっての教養は、こうした講談や浪曲、落語などといった娯楽から得ていたように思われ、共通の認識となって、善悪や価値判断、人の道などを共有していたようにも思えます。
藤堂高虎は、主を転々と変えたことを誹られる面もあるのですが、やはり、主の器を見極めて仕えることも重要であり、苦労した分、人情の機微にも通じ、数々のエピソードはとても魅力的であり、こういう武将に仕えたいと思えてくる最高のひとりであるのは間違いありません。