


絵画をどう見るか、というのは、個人の素質や感性、才能に加え、蓄積された知識や情報によって差があり、こうして見なければならないといった規則や定跡などはなく、見方も解釈も自由裁量にゆだねられているのではあるのですが、絵画と写真の違いは、対象を画家の目を通して切り取ったものであり、画家にはそう見えているものを、受け手としてどう感じるか、と問いかけられているのであって、理解するなどとはおこがましい水準でありながらも、この絵は素晴らしい、と感じることができるだけで、対話は成立しているのであって、共鳴して、気に入るだけでも作品の魅力を自分の中に取り込んだことになり、不幸にして、よくわからないのであれば、とりあえず頭の中の引き出しの中に放り込んでおいて、関連した画家や作品に会った時に引っ張り出してくればいいだけで、それまで、頭の中で発酵したり、忘却したり、浮き沈みしているうちに、重要であれば浮かび上がってくるでしょうし、どうでもよければ消え去るのみでしょうから、自分なりの基準を確立するまでは、とにもかくにも数を当たり、本物に触れる以外、方策はないように思われます。
絵画に限らず、芸術作品には、経済的価値がつきまとい、名高い画家であれば、数千万円から数億円まで値がつくのは知られているところですが、美術館の収益のほとんどを占めるのは、経済的価値の高い作品を他の美術館に貸し出すことによってであって、入場料収入よりも貸出料で経営が成り立っているところが多く、入場料収入を高める効果を持つ名前のある作家の作品はますます価値が高まるということになり、投機的側面があるのも事実であって、見る側にとってはまったく関係のない話であり、絵の値段が高いから、絵としての価値が高いわけでないのは自明であって、注釈程度の情報にしか過ぎず、本筋は作家の生きた時代であり、当時の流行であり、交友関係であり、社会の背景であり、さらには作家特有の技法であり、作家の人生、生きざまそのものであるのは間違いなく、作品にどういう空気や感情、精神をこめたのか、作品にどういう魂を打ち込んだのかを作品と対話して、質問するほかなく、そこから何を聞き取れるのかが問題になってきます。
正解というものがもしあるとしたなら、その作品についての感想を同好の士に論理的に話すなり、書き出してみて、同意し、納得し、大いに首肯してくれたなら、もうそれだけで充分であり、同好の士と見方や評価を共有できる喜びがさらに思索を深め、世界を広め、見識を確かなものへと高める道であり、方向は間違っていないはずで、何人かに受け入れられない場合は、独善に陥っていることを直ちに改める必要がありそうです。
日本の場合、子供の頃から美術に触れる機会があり、芸術全般に対しての教育水準が他の国に比べて高いのですが、完成度や理解度を求めるあまり独創に欠ける傾向があり、基礎を徹底的に学んだら、枠からはみ出るくらいの気概を持って思う存分暴れ回れば、世界で活躍する作家がもっと生まれてくると考えているものの、やはり、抽象画であったり、コンテンポラリーな芸術はまったくわけがわからず、とりあえず頭の中に放り込んであっても、どこかに結びつくことも、ふとしたきっかけで腑に落ちることもなく、なかなか整理がつかないため、落ち着かず、めぐりめぐって、正統なわかりやすい芸術を愛してしまうのも、何となく忸怩たる思いにとらわれてしまいます。