


1914年、19歳でマイナーリーグと契約し、その年にメジャーリーグのボストン・レッドソックスに入団し、2年目からエースとして活躍、1918年以降は、本格的に打者に転向し、1920年にニューヨーク・ヤンキースに移籍、ホームランを打ちまくる中心打者として人気も高まり、ヤンキースが間借りしていたスタジアムから、自前のヤンキースタジアムを建設させるなど球団経営にも貢献し、ボストン・レッドソックス6年、ニューヨーク・ヤンキース15年、ボストン・ブレーブス1年の通算成績8398打数2873安打、714本塁打の金字塔を打ち立て、野球をアメリカ最大の人気スポーツにした功労者としても評価されているようです。
ベーブ・ルースが来日したのは昭和9年(1934)の11月2日から12月1日にかけてで、全米選抜チームの一員として16試合を戦い、全勝しましたが、函館から小倉まで、全国各地で満員の観客は熱狂し、日本に野球を根づかせることにも大きく貢献しました。
大学野球全盛時代に、昭和7年、野球統制令が文部省から発せられ、大学野球チームが全米選抜チームと対戦できないことになったために、職業野球団が結成され、日本初のプロ野球チームが発祥しました。
甲子園球場内の甲子園歴史館の一角にベーブ・ルースゆかりの品の展示があり、思わず足が止まってしまいましたが、見たこともないアメリカのたったひとりの偉大な野球選手が、日本の野球の発展ばかりでなく、日本の子供から大人までの一般大衆に、人生の娯楽以上の影響を与え、喜怒哀楽、悲喜こもごもの日常をもたらせようとは、読売新聞社の招聘を承諾した時には夢にも思っていなかったでしょうし、野球の持つ魅力が極東の小さな島国で受け入れられ、本国以上の隆盛を見せることになろうとは、草葉の陰で苦笑いしているようにも思えてきます。