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大阪市中央公会堂は、明治44年(1911)に株式仲買人・岩本栄之助が100万円を寄付したことにより、財団法人公会堂建設事務所が設立され、当時の第一級の建築家による指名懸賞競技設計が行われ、岡田信一郎の案が一等となり、辰野金吾と片岡安によって実施設計がまとめられ、清水組の施工により、大正2年(1913)6月に着工し、大正7年(1918)10月に竣工しました。
構造は鉄骨レンガ造に鉄筋コンクリートを混在させ、赤レンガと石による重厚で壮大な外観は「ネオルネッサンス式」と呼ばれる建築様式、内部意匠とともに貴重な大正初期の近代洋風建築として、建築史上においても重要ではありましたが、老朽化が進んでいたため、平成11年(1999)3月から平成14年(2002)9月まで、清水建設により、大規模な保存再生工事が行われ、免震耐震工事も加えて、文化財としての価値も守られ、明治・大正の職人の匠の技が生きる内装もよみがえり、同年11月にオープンし、同年12月、国の重要文化財に指定されました。
100万円の建設資金を寄付した岩本栄之助(1877~1916)は、大阪船場の両替商「岩本商店」の次男として生まれ、市立大阪商業学校を卒業後、大阪清語学校、明星外国語学校で学ぶかたわら、家業を手伝い、明治30年(1897)日露戦争に出征、凱旋し、陸軍中尉として受勲し、除隊後、早世した兄に代わり、明治39年(1906)に家督を相続、株式仲買人となり、明治40年(1907)の大暴落時に、野村徳七ら仲買人の訴えを聞き入れ、全財産を投じて買い支え、仲買人たちの窮地を救い、明治42(1909)に財界の渡米実業団に加わり、渋沢栄一らとともに視察、米国の富豪が公共事業や慈善事業などに財産や遺産を投じている姿に感銘を受け、視察中に父の訃報が届き、緊急帰国、その供養もかねて、明治44年3月に寄付を発表、明治45年から大正3年まで大阪株式仲買人組合の委員長を務め、大阪電灯株式会社の取締役にも就任しましたが、大正5年(1916)の第一次世界大戦の異常景気で大衆の買いが殺到して相場は暴騰、自身の判断で売りに回った栄之助の思惑に反して、沸騰した相場は収まらず、苦境に陥り、大損害を被りました。
周囲の人たちは、「寄付した金を返してもらえ」としきりに勧めたにもかかわらず、「一度寄付したものを返せとは大阪商人の恥」として受け入れず、大正5年9月、使用人や家族を宇治へ松茸狩りに送り出し、短銃でのどを撃ち抜き、5日間生死をさまよったのち、享年39の太く短い生涯を閉じました。
何の才覚もなく、何も残せず、取るに足らない日々を平凡に過ごす者にとっては、相場で一度失敗したからといって、何も死を選ぶ必要はないじゃないか、一旦店をたたんで、もう一度やり直せばいいじゃないか、などと何も知らない上に、浅はかな思慮でもって、ついつい、つまらないありきたりな感想を漏らしてしまいますが、才気煥発で偉大な功績を残した偉人にとっては許しがたい事態であったのかもしれず、心中は想像するほかはないにしても、もし生きつづけて天寿をまっとうし、映画やドラマなどになったとしたならば、その冒頭のシーンには、完成した中央公会堂がそびえ立ち、その前にうらぶれた老人がたたずんでいて、観光で訪れた田舎者の若造が、「えらく立派な建物を寄付したものですね。寄付した人はいまは落ちぶれてしまったらしいけど、どこでどうしているのでしょうね」などと話しかけられて、微笑しながらなのか、苦笑しながらなのか、あるいは無表情のままなのか、ゆっくりと公会堂を見上げるところから物語を始められたのに、と思えてきたものの、それだけの人物であれば、必ずどこかから声がかかり、おそらくは社会的地位にも経済的にも恵まれた一生が待ち受けていたはずだ、という思いが強くなってきました。