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緒方洪庵(1810~1863)は、備中国足守藩士の三男に生まれ、文政8年(1825)に大坂蔵屋敷留守居役となった父とともに大坂に上り、翌文政9年より中天游の門下となり、「思々塾」で医学を中心とした蘭学を4年間修め、天保2年(1831)に江戸に出て、坪井信道(1795~1848)と宇田川玄真(1770~1835)に蘭医学を学び、天保7年(1836)には長崎でオランダ人医師・ニーマンに医学を学び、天保9年(1838)に大坂へ戻り、3月、瓦町に蘭学塾「適塾」を開き、7月、摂津名塩の億川百記の娘・八重と結婚、門下生も増え、手狭となったため、過書町の町家を購入し、移転、適塾の評価はますます高まり、全国各地から入門者が集い、塾生たちは熱心に激しく勉学に励んだようで、洪庵の薫陶を受け、幕末から維新にかけて、医学者としてばかりでなく、教育や政治などの分野でも活躍し、日本の近代化に尽くした人物を多数輩出しました。
適塾における教育の中心は、蘭書の会読であったそうですが、予習のために一冊しかない蘭和辞書を塾生が奪い合って使用し、月に6回開かれる会読の成績が三段階の評価を与えられ、3ヶ月以上最上席を占めると上級に進める学習法で、畳一枚分を居住空間としていた住み込みの者は、大部屋の畳の場所を成績によって選んで行ったらしく、ひたすら学問に打ち込む日々で、身なりや食べ物などに気を使う暇などはなかったようです。
日本で最初の病理学書「病学痛論」を著し、種痘を広め、牛痘法により天然痘の予防に尽力した緒方洪庵は、文久2年(1862)に幕府奥医師に召されて江戸に出て、西洋医学所頭取を兼任、14代将軍徳川家茂の侍医「法眼」としての地位にも達し、富と名声に恵まれながらも、攘夷論者からの蘭学者への非難も強まり、堅苦しく不自由な宮仕えの心労も加わり、健康は優れなくなっていて、文久3年(1863)6月10日、突然の大量の喀血により急死しました。
緒方洪庵が江戸に発った文久2年以降は、養子の緒方拙斎らが適塾を守り、塾は存続し、明治元年(1868)に閉鎖されてはいるものの、明治19年(1886)頃まで塾生の教育は継続していたようです。
大村益次郎や橋本佐内、福沢諭吉、長与専斎、大鳥圭介、高松凌雲、佐野常民、高峰譲吉らを輩出した適塾は、大阪北浜のオフィス街に江戸時代そのままの姿を留め、唯一の蘭学遺構であり、明治2年に大阪府が仮病院・医学校を設立した際に緒方洪庵の嗣子・緒方惟準や義弟・緒方郁蔵、養子・緒方拙斎らが参加、この医学校が幾多の変遷を経て、大阪大学医学部となりました。