


適塾における教育の中心は、蘭書の会読であったそうですが、予習のために一冊しかない蘭和辞書を塾生が奪い合って使用し、月に6回開かれる会読の成績が三段階の評価を与えられ、3ヶ月以上最上席を占めると上級に進める学習法で、畳一枚分を居住空間としていた住み込みの者は、大部屋の畳の場所を成績によって選んで行ったらしく、ひたすら学問に打ち込む日々で、身なりや食べ物などに気を使う暇などはなかったようです。
日本で最初の病理学書「病学痛論」を著し、種痘を広め、牛痘法により天然痘の予防に尽力した緒方洪庵は、文久2年(1862)に幕府奥医師に召されて江戸に出て、西洋医学所頭取を兼任、14代将軍徳川家茂の侍医「法眼」としての地位にも達し、富と名声に恵まれながらも、攘夷論者からの蘭学者への非難も強まり、堅苦しく不自由な宮仕えの心労も加わり、健康は優れなくなっていて、文久3年(1863)6月10日、突然の大量の喀血により急死しました。
緒方洪庵が江戸に発った文久2年以降は、養子の緒方拙斎らが適塾を守り、塾は存続し、明治元年(1868)に閉鎖されてはいるものの、明治19年(1886)頃まで塾生の教育は継続していたようです。
大村益次郎や橋本佐内、福沢諭吉、長与専斎、大鳥圭介、高松凌雲、佐野常民、高峰譲吉らを輩出した適塾は、大阪北浜のオフィス街に江戸時代そのままの姿を留め、唯一の蘭学遺構であり、明治2年に大阪府が仮病院・医学校を設立した際に緒方洪庵の嗣子・緒方惟準や義弟・緒方郁蔵、養子・緒方拙斎らが参加、この医学校が幾多の変遷を経て、大阪大学医学部となりました。