


古代、中世、近世、近代、現代へ、と分かれている展示室は、古代ゾーンでは、富本銭や和同開珎、万年通宝などが展示され、中世ゾーンでは、北宋時代の皇宋通宝や元祐通宝、明時代の洪武通宝や宣徳通宝など、渡来銭が展示され、近世ゾーンでは、天正菱大判や甲州金、石見銀、寛永通宝などが展示され、近世ゾーンでは、明治初頭、幕府が発行していた金貨や銀貨や各藩が発行していた藩札、開港とともに流入したメキシコドルの洋銀に加え、明治新政府が発行した太政官札が入り乱れて使われ、混乱状態にあったのを、明治4年(1871)新貨条例が公布され、円を単位とする貨幣制度が整備されて、現代へとつながってくるのでした。
狩猟採集の時代であれば、ヒトは自分たちのムラの分の食べ物を確保して、他との交流においても、余剰分の食糧や装飾品の物々交換を基本として暮らし、貨幣の必要性はなかったでしょうし、稲作をして定住する時代になっても、自分たちの集落の食べる分を確保するのが重要であって、他の集落との交流も盛んになり、争いも起きるようになっても、物々交換、あるいは略奪が行われるだけで、貨幣によって取引をしようという概念はなかったでしょうし、ムラが徐々に大きくなり、専門の官吏を置く必要が出てきた場合に、報酬として何かを与えなくてはならず、さらには余剰食糧が多くなり、職能集団を抱えられるようになり、作られる道具などの数も増えてくると、価値の尺度を決める何らかの基準で取引をする必要に迫られ、「貨幣」や「金銭」といった決済の手段が考案されたと想像がつきます。
日本で最初に作られた貨幣は、唐の文化を積極的に受け入れていた朝廷によって、飛鳥時代、和銅元年(708)に鋳造された円形方孔の「和同開珎」とされていましたが、平成10年(1998)に飛鳥池遺跡の7世紀後半の地層から「富本銭」が出土したことによって、天武天皇12年(683)に天武天皇が銅銭を使うことを命じたことや、持統天皇8年(694)と文武天皇3年(699)に貨幣鋳造の役所を置いたことが日本書紀の記述にあり、それが裏づけられたこととなって、日本史の定説を覆す発見となりました。
興味深かったのは、福井藩が日本で最初に発行した藩札が展示してあったことと、ハイパーインフレが発生したドイツで1923年に発行された100兆マルクや、1946年にハンガリーで発行された10垓ペンゴ、2008年にジンバブエで発行された100兆ジンバブエドルが展示してあったことで、福井藩札の発行の意義が大きかったことが知れた喜びは大きく、日頃、あまり大きな数字の貨幣にまったく縁のない者にとって、ハイパーインフレの札の0の数を数えることすらできず、苦笑するほかありませんでしたが、これまでにカネを蛇蝎の如く嫌い、見るのも触るのもいやという人には会ったことがなく、カネをもらうとうれしくなるのは、いにしえより、人類普遍ではないかと思えてきました。