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東京ステーションギャラリーで、「川端康成コレクション 伝統とモダニズム」展が開かれ、縄文時代の土偶や弥生時代の埴輪から、浦上玉堂や池大雅の文人画、東山魁夷や古賀春江などの絵画、伝統工芸品の逸品など、川端康成の審美眼にかなった書画骨董や、浅草レビューや見世物などのチラシといった通俗的な娯楽にいたるまで、幅の広い収集品のほか、川端康成が住んでいた鎌倉の自宅から平成26年(2014)に見つかり、文芸春秋に掲載されたり、NHKのニュースで取り上げられたりして話題にもなった恋文が展示されている一角がありました。
明治32年(1899)に大阪で生まれ、幼くして両親と死別、明治39年(1906)尋常高等小学校に入学する頃には祖父母に養育されていて、入学した年に祖母が死に、祖父と二人暮らしとなった翌年に別居していた姉も13歳で早世、尋常高等小学校を優秀な成績で卒業し、明治45年(1912)茨木中学校に入学、中学3年の時、祖父も死亡、母の実家に一時身を寄せていたものの、寄宿舎に入り、卒業後に上京、大正6年(1917)第一高等学校に入学、大正9年(1920)東京帝国大学に進学し、在学中から文芸批評や小説を発表し、大正13年(1924)に卒業後は同人雑誌を発刊するなど文筆活動を継続しました。
大正8年(1919)の一高生時代に、本郷のカフェの女給をしていた13歳の伊藤初代と出会い、大正10年(1921)2月に岐阜の寺に預けられていた初代を訪ね、婚約を果たし、帰京後、新生活に向けて、恋文のやり取りをしながら、住まいや資金づくりに奔走していた川端康成の元へ、婚約破棄を伝える手紙が届き、あまりの唐突さと、「非常があって結婚できない」とする内容の理不尽さに衝撃を受け、当時東京帝国大学の学生であった川端康成が、7歳年下の15歳の伊藤初代に宛てて、薄紙に青インクで書いた恋文には、恋心が切々とつづられ、会いたい気持ちが抑え切れないといった情熱的な文言が並んでいました。
この手紙は、投函されずに川端康成の机の引き出しの奥深くに一世紀近くも眠ったまま、伊藤初代に渡ることなく過ぎてしまいましたが、作家にとって書くことは一切合財のすべてにけりをつけることであり、たとえ自分の身の上に起きた事柄であっても、書いてしまえばそれは作品であり、感情やわだかまりを客観視して、整理がついてしまえば、もう魂は救われているのであり、そこには自分を見ている自分がいて、さらにそれを見ている自分がいるからこそ、作品として成立するのであって、思いのたけをぶちまけたり、恨みつらみを晴らしたりするだけでは、第三者が読むに値せず、川端康成にとって、この手紙を書いたことで気持ちの整理がつき、まるで、クローズアップされていたひとりの人間からカメラが引いて行って、やがて日本列島の形が見え、しまいには地球の映像にまでなってしまうかのような大局に立ち、すでに手紙を出す必要がまったくなくなっていたものと思われます。
恋文というプライバシーそのもののような私信を見るというのも、何となく下世話な気にもなってきますが、プライバシーの権利は一身専属であり、故人にはないと考えられ、作品の著作権としてなら、昭和47年(1972)に亡くなった川端康成の場合はまだ50年が経過していなくて、おそらく遺族の了承を得ているとは思われるものの、作家はそもそもプライバシーなんぞ守ってもらおうなどという思いは露ほどもなく、それくらいの覚悟がなければ、人の魂を揺さぶる作品など残せないと思います。